Sanshirō - Chapter 4

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三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の魂魂たましい soul; spiritがふわつき出したふわつき出だした became unsteady; became restless。講義講義こうぎ lecturesを聞いて聞きいて listen to; attend (lectures)いると、遠方遠方えんぽう distant place; far awayに聞こえる。わるくすると肝要な肝要かんような essential; crucial事事こと facts; pointsを書き落とす書かき落おとす fail to take note of。はなはだしいはなはだしい extreme; sever時時とき times; occasionsはひとの耳耳みみ earを損料損料そんりょう hire; rentで借りて借かりて borrowいるような気気き feeling; impressionがする。三四郎はばかばかしくてばかばかしくて ludicrous; asinineたまらない。仕方なしに仕方しかたなしに having no other recourse、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に向かって向むかって turning (to)、どうも近ごろ近ちかごろ recentlyは講義がおもしろくないと言い出した言いい出だした revealed; confided。与次郎の答答こたえ responseはいつも同じ同おなじ the sameことであった。

「講義がおもしろいわけがない。君君きみ youはいなか者いなか者もの country boyだから、いまに偉い偉えらい remarkable; eminent事になると思って思おもって think; imagine、今日今日こんにち this (present) dayまでしんぼうしてしんぼうして persevere; exhibit patience聞いていたんだろう。愚愚ぐ foolishnessの至りの至いたり the height ofだ。彼らの彼かれらの their講義は開闢開闢かいびゃく beginnings; foundation以来以来いらい sinceこんなものだ。いまさら失望失望しつぼう disappointment; despondenceしたってしかたがないや」

「そういうわけでもないが……」三四郎は弁解する弁解べんかいする defend; excuse。与次郎のへらへら調へらへら調ちょう flippant toneと、三四郎の重苦しい重苦おもぐるしい gloomy; oppressive口のききよう口くちのききよう manner of speakingが、不釣合不釣合ふつりあい imbalance; mismatchではなはだおかしい。

こういう問答問答もんどう exchange (conversation)を二、三度二に、三度さんど two or three times繰り返して繰くり返かえして repeatいるうちに、いつのまにか半月半月はんつき half of a monthばかりたった。三四郎の耳は漸々漸々ぜんぜん gradually; by degrees借りものでないようになってきた。すると今度今度こんど this timeは与次郎のほうから、三四郎に向かって、

「どうも妙な妙みょうな strange; odd顔顔かお face; facial expressionだな。いかにも生活生活せいかつ living; one's lifeに疲れて疲つかれて tired (of)いるような顔だ。世紀末世紀末せいきまつ ennui; cynicism (based on 19th century 'fin de siècle' ideas)の顔だ」と批評批評ひひょう criticism; commentaryし出したし出だした began with。三四郎は、この批評に対してに対たいして with regard toも依然として依然いぜんとして as before、

「そういうわけでもないが……」を繰り返していた。三四郎は世紀末などという言葉言葉ことば word; term; expressionを聞いて聞きいて hearうれしがるほどに、まだ人工的の人工的じんこうてきの artificial; crafted by men空気空気くうき air; atmosphereに触れていなかった触ふれていなかった was not in touch with; lacked exposure to。またこれを興味興味きょうみ interest; curiosityある玩具玩具おもちゃ playthingとして使用しうる使用しようしうる be able to useほどに、ある社会社会しゃかい society; companyの消息消息しょうそく news (of); (someone's) movementsに通じて通つうじて be versed in; be familiar withいなかった。ただ生活に疲れているという句句く phraseが少し少すこし a bit気にいった気きにいった met one's favor。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎は下痢下痢げり diarrheaのためばかりとは思わなかった。けれども大いに大おおいに greatly疲れた顔を標榜する標榜ひょうぼうする sport; show off; professほど、人生観人生観じんせいかん view of life; outlook on lifeのハイカラハイカラ stylishness; smartnessでもなかった。それでこの会話会話かいわ conversationはそれぎり発展しずに発展はってんしずに without developing; without progressing further済んだ済すんだ ended; finished。

そのうち秋秋あき fall; autumnは高くなる高たかくなる reached its peak。食欲食欲しょくよく appetiteは進む進すすむ progress; improve。二十三二十三にじゅうさん twenty threeの青年青年せいねん youth; young manがとうてい人生人生じんせい living; one's lifeに疲れて疲つかれて be weary (of)いることができない時節時節じせつ season; timesが来た来きた came; arrived。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はよく出る出でる go out。大学大学だいがく universityの池池いけ pondの周囲周囲まわり edge; perimeterもだいぶん回って回まわって circle; walk aroundみたが、べつだんの変変へん changeもない。病院病院びょういん hospitalの前前まえ front ofも何べんとなく何なんべんとなく any number of times往復した往復おうふくした came and went; passed to and froが普通の普通ふつうの ordinary人間人間にんげん peopleに会う会あう see; meet; encounterばかりである。また理科大学理科りか大学だいがく college of scienceの穴倉穴倉あなぐら basement; cellarへ行って行いって go (to); visit野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)君君くん (suffix of familiarity for males)に聞いて聞きいて ask; inquireみたら、妹妹いもうと younger sisterはもう病院を出たと言う言いう said; reported。玄関玄関げんかん entrywayで会った女女おんな young ladyの事事こと matter; affairを話そう話はなそう mention; talk (of)と思った思おもった thought; consideredが、先方先方さき the other party; he (usually 先方せんぽう)が忙しそう忙いそがしそう looking busyなので、つい遠慮して遠慮えんりょして hold off; refrainやめてしまった。今度今度こんど next time; at the next opportunity大久保大久保おおくぼ Ōkubo (place name)へ行ってゆっくり話せば、名前名前なまえ nameも素姓素姓すじょう one's (personal) storyもたいていはわかることだから、せかずにせかずに without rushing (things); without acting impatient引き取った引ひき取とった withdrew; left。そうして、ふわふわして方々方々ほうぼう here and there; all around歩いて歩あるいて walk; ambleいる。田端田端たばた Tabata (place name)だの、道灌山道灌山どうかんやま Dōkanyama (place name)だの、染井染井そめい Somei (place name)の墓地墓地ぼち cemeteryだの、巣鴨巣鴨すがも Sugamo (place name)の監獄監獄かんごく prisonだの、護国寺護国寺ごこくじ Gokokuji (name of a temple)だの、――三四郎は新井の薬師新井あらいの薬師やくし Arai no Yakushi (name of a temple)までも行った。新井の薬師の帰り帰かえり return (trip)に、大久保へ出て野々宮君の家家うち houseへ回ろうと思ったら、落合落合おちあい Ochiai (place name)の火葬場火葬場やきば crematoriumの辺辺へん vicinity; surroundingsで道を間違えて道みちを間違まちがえて take a wrong turn; lose one's way、高田高田たかた Takata (place name)へ出たので、目白目白めじろ Mejiro (place name)から汽車汽車きしゃ (steam) trainへ乗って乗のって ride on; board帰った。汽車の中中なか insideでみやげみやげ (visitation) giftに買った買かった bought栗栗くり chestnutsを一人で一人ひとりで by oneselfさんざん食った食くった ate。その余り余あまり remainder; leftover (portion)はあくる日あくる日ひ the next day与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が来て、みんな平らげた平たいらげた ate up; wolfed down。

三四郎はふわふわすればするほど愉快愉快ゆかい happiness; exhilarationになってきた。初め初はじめ beginningのうちはあまり講義講義こうぎ lecturesに念を入れ過ぎた念ねんを入いれ過すぎた paid too much attention (to)ので、耳が遠くなって耳みみが遠とおくなって lose one's hearing筆記筆記ひっき note takingに困った困こまった struggled (with)が、近ごろ近ちかごろ recentlyはたいていに聞いているからなんともない。講義中講義中こうぎちゅう during lectures; in the midst of lecturesにいろいろな事を考える考かんがえる consider; think about。少し少すこし a little; a bitぐらい落として落おとして drop; missも惜しい惜おしい regrettable気気き feelingも起こらない起おこらない did not occur; did not arise。よく観察観察かんさつ observationしてみると与次郎はじめみんな同じ同おなじ the sameことである。三四郎はこれくらいでいいものだろうと思い出した思おもい出だした decided; realized。

三四郎がいろいろ考えるうちに、時々時々ときどき sometimes; occasionally例の例れいの the aforementionedリボンが出てくる。そうすると気がかりになる。はなはだ不愉快になる不愉快ふゆかいになる be dissatisfied; be upset。すぐ大久保へ出かけてみたくなる。しかし想像想像そうぞう imaginationの連鎖連鎖れんさ connections; flow ofやら、外界外界がいか the outside world; the world around oneの刺激刺激しげき stimulation; excitementやらで、しばらくするとまぎれてしまう。だからだいたいはのん気である。それで夢夢ゆめ dreamを見て見みて see; have (a dream)いる。大久保へはなかなか行かない。

ある日日ひ dayの午後午後ごご afternoon三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は例のごとく例れいのごとく as usualぶらついて、団子坂団子坂だんござか Dangozaka (place name)の上上うえ top (of)から、左左ひだり left (direction)へ折れて折おれて turned (toward)千駄木千駄木せんだぎ Sendagi (place name)林町林町はやしちょう Hayashichō (sub-district of Sendagi)の広い広ひろい wide; broad通り通とおり avenueへ出た出でた arrived (at)。秋晴れ秋晴あきばれ clear autumn weatherといって、このごろは東京東京とうきょう Tōkyōの空空そら skyもいなかのように深く深ふかく deep見える見みえる appear。こういう空の下下した beneathに生きている生いきている live; be aliveと思う思おもう think (of); considerだけでも頭頭あたま head; one's mindははっきりする。そのうえ、野野の field; open spaceへ出れば申し分はない申もうし分ぶんはない perfect; ideal。気気き feelings; moodがのびのびして魂魂たましい soul; spiritが大空大空おおぞら big skyほどの大きさ大おおきさ sizeになる。それでいてからだ総体総体そうたい overall; as a wholeがしまってくる。だらしのない春春はる spring(time)ののどかさのどかさ serenity; calmとは違う違ちがう different。三四郎は左右左右さゆう left and right; both sidesの生垣生垣いけがき hedgesをながめながら、生まれてはじめて生うまれてはじめて the first time in one's lifeの東京の秋秋あき autumnをかぎつつやって来たかぎつつやって来きた drank in (the fragrance) as (he) went。

坂下坂下さかした bottom of the (Dangozaka) hillでは菊人形菊人形きくにんぎょう chrysanthemum dollsが二、三日二に、三日さんにち two or three days前前まえ before開業した開業かいぎょうした opened (for business)ばかりである。坂坂さか hillを曲がる曲まがる turn (at)時時とき time; momentは幟幟のぼり flags; bannersさえ見えた見みえた were visible。今今いま now; at presentはただ声声こえ voicesだけ聞こえる聞きこえる could be heard、どんちゃんどんちゃん遠くから遠とおくから from the distanceはやしてはやして play music; beat timeいる。そのはやしの音音おと soundが、下下した belowの方方ほう directionから次第に次第しだいに gradually浮き上がって浮うき上あがって float up; rise upきて、澄み切った澄すみ切きった crystal clear秋の空気空気くうき airの中中なか midst (of)へ広がり尽くす広ひろがり尽つくす fully disperseと、ついにはきわめて稀薄な稀薄きはくな thin; sparse波波なみ waveになる。そのまた余波余波よは remains; tracesが三四郎の鼓膜鼓膜こまく eardrumsのそばまで来てしぜんにとまる。騒がしい騒さわがしい noisy; boisterousというよりはかえっていい心持ち心持こころもち feelingである。

時に突然突然とつぜん suddenly左の横町横町よこちょう side street; laneから二人二人ふたり two peopleあらわれた。その一人一人ひとり one personが三四郎を見て、「おい」と言う言いう called out。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の声はきょうにかぎって、几帳面几帳面きちょうめん precise; exactである。その代りその代かわり on the other hand; at the same time連連つれ companionがある。三四郎はその連を見た時、はたして日ごろ日ひごろ for a long timeの推察どおり推察すいさつどおり as conjectured; as surmised、青木堂青木堂あおきどう Aokidō (grocery and spirits shop in Hongō with cafe on 2nd floor)で茶茶ちゃ teaを飲んで飲のんで drinkいた人人ひと personが、広田広田ひろた Hirota (name)さんであるということを悟った悟さとった realized; confirmed。この人とは水蜜桃水蜜桃すいみつとう peaches (referring to Sanshirō's train ride to Tōkyō)以来以来いらい since ...妙な妙みょうな strange; curious関係関係かんけい connectionがある。ことに青木堂で茶を飲んで煙草煙草タバコ tobacco; cigaretteをのんで、自分自分じぶん oneselfを図書館図書館としょかん libraryに走らして走はしらして sent (someone) runningよりこのかた、いっそうよく記憶記憶きおく memory; thoughtsにしみている。いつ見ても神主神主かんぬし Shinto priestのような顔顔かお face; facial expressionに西洋人西洋人せいようじん Westernerの鼻鼻はな noseをつけている。きょうもこのあいだの夏服夏服なつふく summer clothing; warm-weather attireで、べつだん寒そうな寒さむそうな looking (as if one is) cold様子様子ようす look; appearanceもない。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はなんとか言って言いって say、挨拶挨拶あいさつ greetingをしようと思った思おもった thought (to)が、あまり時間時間じかん timeがたっているので、どう口をきいて口くちをきいて speak; engage (in conversation)いいかわからない。ただ帽子帽子ぼうし hat; capを取って取とって take (off); remove礼礼れい salutationをした。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に対してに対たいして with respect to; in relation toは、あまり丁寧すぎる丁寧ていねいすぎる too polite。広田広田ひろた (Professor) Hirotaに対しては、少し少すこし a little; a bit簡略すぎる簡略かんりゃくすぎる too simple; too brief。三四郎はどっちつかずの中間中間ちゅうかん middleにでた。すると与次郎が、すぐ、

「この男男おとこ fellowは私の私わたしの my同級生同級生どうきゅうせい classmateです。熊本熊本くまもと Kumamoto (city in Kyūshū)の高等学校高等こうとう学校がっこう high school (equivalent to modern-day college)からはじめて東京東京とうきょう Tōkyōへ出て来た出でて来きた came (to)――」と聞かれもしないさきから聞きかれもしないさきから before being askedいなか者いなか者もの provincial (background); country upbringingを吹聴して吹聴ふいちょうして blurt out; broadcastおいて、それから三四郎の方方ほう directionを向いて向むいて turn (toward)、

「これが広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota。高等学校の……」とわけもなくわけもなく easily; casually双方双方そうほう both sides; both partiesを紹介して紹介しょうかいして introduceしまった。

この時時とき time; moment広田先生は「知ってる知しってる (I) know、知ってる」と二へん二にへん twice; two times繰り返して繰くり返かえして in repetition言ったので、与次郎は妙な妙みょうな odd; curious顔顔かお look; facial expressionをしている。しかしなぜ知ってるんですかなどとめんどうなめんどうな troublesome; trifling事事こと facts; detailsは聞かなかった。ただちに、

「君君きみ you (used here as form of address)、この辺辺へん vicinityに貸家貸家かしや house for rentはないか。広くて広ひろくて large; spacious、きれいな、書生部屋書生しょせい部屋べや lodging student roomのある」と尋ねだした尋たずねだした inquired。

「貸家はと……ある」

「どの辺だ。きたなくっちゃいけないぜ」

「いやきれいなのがある。大きな大おおきな large石石いし stoneの門門もん gateが立って立たって stand; be erectedいるのがある」

「そりゃうまい。どこだ。先生、石の門はいいですな。ぜひそれにしようじゃありませんか」と与次郎は大いに進んで進すすんで promote; get behind (an idea)いる。

「石の門はいかん」と先生が言う。

「いかん? そりゃ困る困こまる be a problem。なぜいかんです」

「なぜでもいかん」

「石の門はいいがな。新しい新あたらしい new; modern男爵男爵だんしゃく baronのようでいいじゃないですか、先生」

与次郎はまじめである。広田先生はにやにや笑ってにやにや笑わらって grin; smileいる。とうとうまじめのほうが勝って勝かって won; triumphed、ともかくも見る見みる take a lookことに相談ができて相談そうだんができて discussion was concluded、三四郎が案内案内あんない guidance; leading the wayをした。

横町横町よこちょう side street; laneをあとへ引き返して引ひき返かえして double back (the way one came)、裏通り裏通うらどおり back street; alleywayへ出る出でる arrive (at)と、半町半町はんちょう half a chō (about 55 meters; about 60 yards)ばかり北北きた northへ来た来きた came; traveled所所ところ place; spotに、突き当り突つき当あたり end (of a street); dead endと思われる思おもわれる seems to be; appears to beような小路小路こうじ narrow laneがある。その小路の中中なか insideへ三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は二人二人ふたり two (people)を連れ込んだ連つれ込こんだ led into。まっすぐに行く行いく go; proceedと植木屋植木屋うえきや (plant) nurseryの庭庭にわ garden; groundsへ出てしまう。三人三人さんにん three (people)は入口入口いりぐち entranceの五、六間五ご、六間ろっけん 5 or 6 ken (about 10 meters; about 11 yards)手前手前てまえ short of; this side ofでとまった。右手右手みぎて righthand sideにかなり大きな大おおきな large御影御影みかげ granite (short for 御影石みかげいし)の柱柱はしら pillar; columnが二本二本にほん two (pillars)立って立たって stand; be erectedいる。扉扉とびら gateは鉄鉄てつ iron; steelである。三四郎がこれだと言う言いう declare; announce。なるほど貸家貸家かしや house for rent札札ふだ sign; placardがついている。

「こりゃ恐ろしい恐おそろしい wonderful; marvelousもんだ」と言いながら、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は鉄の扉をうんと押した押おした pushedが、錠がおりて錠じょうがおりて be lockedいる。「ちょっとお待ちなさいお待まちなさい wait聞いてくる聞きいてくる go ask; go check」と言うやいなややいなや as soon as、与次郎は植木屋の奥奥おく interiorの方方ほう directionへ駆け込んで行った駆かけ込こんで行いった ran off into。広田広田ひろた (Professor) Hirotaと三四郎は取り残された取とり残のこされた left behind; abandonedようなものである。二人二人ふたり two (people)で話話はなし conversationを始めた始はじめた began; started。

「東京東京とうきょう Tōkyōはどうです」

「ええ……」

「広い広ひろい big; expansiveばかりできたない所所ところ placeでしょう」

「ええ……」

「富士山富士山ふじさん Mt Fujiに比較する比較ひかくする compare (with)ようなものはなんにもないでしょう」

三四郎は富士山の事の事こと concerning ...; about ...をまるで忘れていた忘わすれていた had forgotten。広田先生広田先生ひろたせんせい Professor Hirotaの注意注意ちゅうい adviceによって、汽車汽車きしゃ (steam) trainの窓窓まど windowからはじめてながめた富士は、考え出す考かんがえ出だす recallと、なるほど崇高な崇高すうこうな grand; sublimeものである。ただ今ただ今いま at present自分の自分じぶんの one's own頭頭あたま headの中中なか insideにごたごたしている世相世相せそう state of the world; pulse of civilizationとは、とても比較にならない。三四郎はあの時時とき time; occasionの印象印象いんしょう impressionをいつのまにか取り落して取とり落おとして let slipいたのを恥ずかしく思った恥はずかしく思おもった felt ashamed。すると、

「君君きみ you (used here as form of address)、不二山不二山ふじさん Mt Fuji (older way of writing; lit: peerless mountain)を翻訳して翻訳ほんやくして translateみたことがありますか」と意外な意外いがいな unexpected質問質問しつもん questionを放たれた放はなたれた have thrown one's way。

「翻訳とは……」

「自然自然しぜん natureを翻訳すると、みんな人間人間にんげん human beingに化けて化ばけて take the form of; metamorphose (into)しまうからおもしろい。崇高だとか、偉大偉大いだい great; mightyだとか、雄壮雄壮ゆうそう heroic; gallantだとか」

三四郎は翻訳の意味意味いみ meaning; sense (of something)を了した了りょうした understood。

「みんな人格人格じんかく (human) character; personality上上じょう from the viewpoint of ...の言葉言葉ことば wordsになる。人格上の言葉に翻訳する翻訳ほんやくする translateことのできないものには、自然自然しぜん natureが毫も毫ごうも (not) in the least; (not) at all人格上の感化感化かんか influence; inspirationを与えて与あたえて impart (to); bestow (on)いない」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまだあとがあるかと思って思おもって think、黙って黙だまって remain silent聞いて聞きいて listenいた。ところが広田さん広田ひろたさん (Professor) Hirotaはそれでやめてしまった。植木屋植木屋うえきや (plant) nurseryの奥奥おく interiorの方方ほう directionをのぞいて、

「佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)は何何なに whatをしているのかしら。おそいな」とひとりごとのように言う言いう say; remark。

「見て見みて see; check (on)きましょうか」と三四郎が聞いた。

「なに、見にいったって、それで出てくる出でてくる come outような男男おとこ fellowじゃない。それよりここに待って待まって waitるほうが手間手間てま effort; troubleがかからないでいい」と言って枳殻枳殻からたち trifoliate orangeの垣根垣根かきね hedgeの下下した base ofにしゃがんで、小石小石こいし pebbleを拾って拾ひろって pick up、土土つち dirt; soilの上上うえ top of; surface ofへ何かかき出したかき出だした began to draw。のん気のん気き easygoing; carefreeなことである。与次郎ののん気とは方角方角ほうがく direction; bearingsが反対反対はんたい oppositeで、程度程度ていど degree; amount; extentがほぼ相似ている相似あいにている resemble one another。

ところへ植込み植込うえこみ thicket (of plants)の松松まつ pine treesの向こう向むこう far side; beyondから、与次郎が大きな声大おおきな声こえ loud voiceを出した出だした put forth (voice)。

「先生先生せんせい professor先生」

先生は依然として依然いぜんとして as before、何かかいている。どうも燈明台燈明台とうみょうだい lighthouseのようである。返事返事へんじ answer; replyをしないので、与次郎はしかたなしに出て来た出でて来きた came out; reappeared。

「先生ちょっと見てごらんなさい。いい家家うち houseだ。この植木屋植木屋うえきや (plant) nurseryで持って持もって have; ownるんです。門門もん gateをあけさせてもいいが、裏裏うら back sideから回った回まわった go aroundほうが早い早はやい quick; fast」

三人三人さんにん three (people)は裏から回った。雨戸雨戸あまど outside (sliding) door; storm doorをあけて、一間一間一間一間ひとまひとま one room at a time見て歩いた歩あるいた walked。中流中流ちゅうりゅう middle classの人人ひと personが住んで住すんで live (in a place)恥ずかしくない恥はずかしくない respectable; decentようにできている。家賃家賃やちん (house) rentが四十円四十よんじゅう円えん forty yenで、敷金敷金しききん security depositが三か月分三か月さんかげつ分ぶん 3 months' (rent)だという。三人はまた表表おもて out frontへ出た。

「なんで、あんなりっぱな家を見るのだ」と広田さんが言う。

「なんで見るって、ただ見るだけだからいいじゃありませんか」と与次郎は言う。

「借り借かり rent (a house)もしないのに……」

「なに借りるつもりでいたんです。ところが家賃をどうしても二十五円二十五にじゅうご円えん twenty five yenにしようと言わない……」

広田先生は「あたりまえさ」と言ったぎりである。すると与次郎が石石いし stoneの門の歴史歴史れきし history; backgroundを話し出した話はなし出だした began to explain。このあいだまである出入りの出入でいりの oft visited; frequented (on business)屋敷屋敷やしき residence; estateの入口入口いりぐち entranceにあったのを、改築改築かいちく structural alteration; reconstructionのときもらってきて、すぐあすこへ立てた立たてた erectedのだと言う。与次郎だけに妙な妙みょうな strange; odd事事こと facts; mattersを研究して研究けんきゅうして research; investigateきた。

それから三人三人さんにん three (people)はもとの大通り大通おおどおり main street; main thoroughfareへ出て出でて came (to); arrived (at)、動坂動坂どうざか Dōzaka (place name)から田端田端たばた Tabata (place name)の谷谷たに valleyへ降りた降おりた descended (into)が、降りた時分時分じぶん timeには三人ともただ歩いて歩あるいて walkいる。貸家貸家かしや house for rentの事事こと matter; affairはみんな忘れて忘わすれて forgot aboutしまった。ひとり与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が時々時々ときどき occasionally石石いし stoneの門門もん gateのことを言う言いう mention。麹町麹町こうじまち Kōjimachi (place name)からあれを千駄木千駄木せんだぎ Sendagi (place name)まで引いてくる引ひいてくる bring; carry (lit: come pulling)のに、手間手間てま laborが五円五円ごえん five yenほどかかったなどと言う。あの植木屋植木屋うえきや (plant) nurseryはだいぶ金持ち金持かねもち wealthyらしいなどとも言う。あすこへ四十円四十よんじゅう円えん forty yenの貸家を建てて建たてて build; construct、ぜんたいだれが借りる借かりる rent (a house)だろうなどとよけいなことまで言う。ついには、いまに借手借手かりて renterがなくなってきっと家賃を下げる下さげる reduce; lowerに違いないに違ちがいない no doubt ...から、その時時とき time; occasionもう一ぺんもう一いっぺん one more time談判談判だんぱん discussion; negotiationしてぜひ借りようじゃありませんかという結論結論けつろん conclusionであった。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaはべつに、そういう了見了見りょうけん intention; inclinationもないとみえて、こう言った。

「君君きみ youが、あんまりよけいなよけいな extraneous話話はなし conversationばかりしているものだから、時間時間じかん timeがかかってしかたがない。いいかげんにして出てくる出でてくる come out; come backものだ」

「よほど長くかかりました長ながくかかりました took a long timeか。何か何なにか something; some sort of絵絵え drawing; sketchをかいていましたね。先生もずいぶんのん気のん気き carefree; easygoingだな」

「どっちがのんきかわかりゃしない」

「ありゃなんの絵です」

先生は黙って黙だまって fall silentいる。その時三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)がまじめな顔顔かお face; (facial) expressionをして、

「燈台燈台とうだい lighthouseじゃないですか」と聞いた聞きいた asked。かき手かき手て illustratorと与次郎は笑い出した笑わらい出だした laughed。

「燈台は奇抜奇抜きばつ novel; originalだな。じゃ野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)宗八宗八そうはち Sōhachi (Nonomiya's first name)さんをかいていらしったんですね」

「なぜ」

「野々宮さんは外国外国がいこく foreign countries; foreign landsじゃ光って光ひかって shineるが、日本日本にほん Japanじゃまっ暗まっ暗くら pitch dark (from: 灯台とうだい下もと暗くらし - It's darkest at the base of the lighthouse)だから。――だれもまるで知らない知しらない not know; not be aware of。それでわずかばかりの月給月給げっきゅう (monthly) salaryをもらって、穴倉穴倉あなぐら basement; cellarへたてこもって、――じつに割に合わない割わりに合あわない doesn't pay; doesn't pay off商売商売しょうばい trade; businessだ。野々宮さんの顔を見る見みる see; look atたびに気の毒気きの毒どく pitiableになってたまらない」

「君なぞは自分自分じぶん oneselfのすわっている周囲周囲しゅうい circumference; periphery方方ほう direction二尺二尺にしゃく 2 shaku (about 60 cm; about 2 feet)ぐらいの所所ところ space; locationをぼんやり照らす照てらす illuminate; light upだけだから、丸行燈丸行燈まるあんどん round lanternのようなものだ」

丸行燈に比較比較ひかく comparisonされた与次郎は、突然突然とつぜん suddenly三四郎の方を向いて向むいて turn toward、

「小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)君君くん (suffix of familiarity for males)、君は明治明治めいじ Meiji (Meiji period; 1868-1912)何年何年なんねん which year (in Meiji period)生まれ生うまれ birth(year)かな」と聞いた。三四郎は簡単に簡単かんたんに simply、

「ぼくは二十三二十三にじゅうさん twenty threeだ」と答えた答こたえた answered。

「そんなものだろう。――先生先生せんせい professorぼくは、丸行燈丸行燈まるあんどん round lanternだの、雁首雁首がんくび goose neck (pipe)だのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年明治めいじ十五じゅうご年ねん 15th year of Meiji (1882) [note: story is set in 1907]以後以後いご on or afterに生まれた生うまれた was born (in)せいかもしれないが、なんだか旧式旧式きゅうしき old style; outdatedでいやな心持ち心持こころもち feeling; impressionがする。君君きみ youはどうだ」とまた三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の方方ほう directionを向く向むく turn (to)。三四郎は、

「ぼくはべつだんきらいでもない」と言った言いった said; replied。

「もっとも君は九州九州きゅうしゅう Kyūshūのいなかから出た出でた arrived (from)ばかりだから、明治元年明治めいじ元年がんねん 1st year of Meiji (1868)ぐらいの頭頭あたま head; mind; thoughtsと同じ同おのじ the sameなんだろう」

三四郎も広田広田ひろた (Professor) Hirotaもこれに対してに対たいして in regard to; with respect toべつだんの挨拶挨拶あいさつ reaction; acknowledgementをしなかった。少し少すこし a little; a bit行く行いく go (on); proceedと古い古ふるい old寺寺てら templeの隣隣となり next to; adjacent (place)の杉林杉林すぎばやし cedar groveを切り倒して切きり倒たおして cut down (trees); clear、きれいに地ならし地じならし ground leveling; gradingをした上上うえ top ofに、青青あお blueペンキ塗りのペンキ塗ぬりの painted西洋館西洋館せいようかん Western-style buildingを建てて建たてて build; constructいる。広田先生は寺とペンキ塗りを等分に等分とうぶんに in equal parts見て見みて look at; observeいた。

「時代錯誤時代錯誤アナクロニズム anachronismだ。日本日本にほん Japanの物質界物質界ぶっしつかい physical realmも精神界精神界せいしんかい spiritual realmもこのとおりだ。君、九段九段くだん Kudan (place name)の燈明台燈明台とうみょうだい lighthouseを知って知しって know (of)いるだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会江戸えど名所めいしょ図会ずえ Illustrated Guide to Edo Sights (woodblock print publication from 1834)に出ている」

「先生冗談冗談じょうだん joke; jest言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

広田先生は笑い出した笑わらい出だした laughed。じつは東京名所東京とうきょう名所めいしょ Sights of Tōkyōという錦絵錦絵にしきえ nishiki-e (multi-colored woodblock print)の間違い間違まちがい mistake; errorだということがわかった。先生の説説せつ explanationによると、こんなに古い燈台が、まだ残って残のこって remainいるそばに、偕行社偕行社かいこうしゃ (army) officers' clubという新式新式しんしき modern styleの煉瓦作り煉瓦作れんがづくり brick (building)ができた。二つ二ふたつ two (things)並べて並ならべて place side by side見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかないだれも気きがつかない no one notices; no one minds、平気平気へいき calm; unconcernedでいる。これが日本の社会社会しゃかい societyを代表して代表だいひょうして represent; epitomizeいるんだと言う。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前前まえ front ofを通り越して通とおり越こして pass by、五、六町五ご、六町ろくちょう 5 or 6 chō (about half a km; about a third of a mile)来る来くる come; cover (distance)と、大きな大おおきな large黒い黒くろい black門門もん gateがある。与次郎が、ここを抜けて抜ぬけて cut through道灌山道灌山どうかんやま Dōkanyama (place name)へ出ようと言い出した言いい出だした proposed; suggested。抜けてもいいのかと念を押す念ねんを押おす double check; confirmと、なにこれは佐竹佐竹さたけ Satake (family name)の下屋敷下屋敷しもやしき villa; daimyō's suburban residenceで、だれでも通れる通とおれる can pass throughんだからかまわないと主張する主張しゅちょうする insist; assert one's positionので、二人二人ふたり two (people)ともその気気き intentionになって門をくぐって、藪藪やぶ thicket; groveの下下した below; beneathを通って古い池池いけ pondのそばまで来ると、番人番人ばんにん caretaker; watchmanが出てきて、たいへん三人三人さんにん three (people)をしかりつけた。その時時とき time; occasion与次郎はへいへいへいへい yes sir; certainlyと言って番人にあやまった。

それから谷中谷中やなか Yanaka (place name)へ出て出でて arrive (at)、根津根津ねづ Nezu (place name)を回って回まわって circle around (through)、夕方夕方ゆうがた eveningに本郷本郷ほんごう Hongō (place name)の下宿下宿げしゅく dorm; lodgingsへ帰った帰かえった returned (to)。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は近来近来きんらい recentlyにない気楽な気楽きらくな at ease; carefree半日半日はんにち half dayを暮らした暮くらした lived; experiencedように感じた感かんじた felt。

翌日翌日よくじつ the next day学校学校がっこう school; universityへ出てみると与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がいない。昼昼ひる noonから来る来くる come; arriveかと思った思おもった thoughtが来ない来こない didn't show。図書館図書館としょかん libraryへもはいったがやっぱり見当らなかった見当みあたらなかった saw no sign (of someone or something)。五時五時ごじ five (o'clock)から六時六時ろくじ six (o'clock)まで純文科共通純じゅん文科ぶんか共通きょうつう literature all-departmentの講義講義こうぎ lectureがある。三四郎はこれへ出た。筆記する筆記ひっきする take notesには暗すぎる暗くらすぎる be too dark。電燈電燈でんとう electric lightingがつくには早すぎる早はやすぎる too early。細長い細長ほそながい long and narrow窓窓まど windowsの外外そと outsideに見える見みえる be visible大きな大おおきな large欅欅けやき zelkova (tree)の枝枝えだ branches; limbsの奥奥おく interior; depthsが、次第に次第しだいに gradually黒くなる黒くろくなる turn black; grow dark時分時分じぶん time; hourだから、部屋部屋へや roomの中中なか insideは講師講師こうし lecturerの顔顔かお faceも聴講生聴講生ちょうこうせい attendees; listenersの顔も等しく等ひとしく similarlyぼんやりしている。したがって暗闇で暗闇くらやみで in the dark饅頭饅頭まんじゅう bean-jam bunを食う食くう eatように、なんとなく神秘的神秘的しんぴてき mystical; deep and profoundである。三四郎は講義がわからないところが妙妙みょう curious; oddだと思った。頬杖を突いて頬杖ほおづえを突ついて supporting one's chin with one's hand聞いて聞きいて listenいると、神経神経しんけい sensitivity; perceptionがにぶくなって、気が遠くなる気きが遠とおくなる felt distant; drifted away。これでこそ講義の価値価値かち value; worthがあるような心持ち心持こころもち feelingがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事万事ばんじ all thingsがやや明瞭明瞭めいりょう clarity; lucidityになった。すると急に急きゅうに suddenly下宿へ帰って飯飯めし dinnerが食いたくなった。先生先生せんせい professorもみんなの心心こころ heart; feelingを察して察さっして perceive、いいかげんに講義を切り上げて切きり上あげて bring to a conclusionくれた。三四郎は早足で早足はやあしで at a quick pace追分追分おいわけ Oiwake (place name)まで帰ってくる。

着物着物きもの kimonoを脱ぎ換えて脱ぬぎ換かえて change out of (one's clothes)膳膳ぜん (dining) trayに向かう向むかう face; sit down toと、膳の上上うえ top ofに、茶碗蒸茶碗蒸ちゃわんむし egg custard stewといっしょに手紙手紙てがみ letterが一本一本いっぽん one (letter)載せてある載のせてある had been placed。その上封上封うわふう outer sealを見た見みた saw; looked atとき、三四郎はすぐ母母はは motherから来た来きた came (from)ものだと悟った悟さとった knew; realized。すまんことだがこの半月半月はんつき half monthあまり母の事の事こと about ...; concerning ...はまるで忘れていた忘わすれていた had forgotten。きのうからきょうへかけては時代錯誤時代錯誤アナクロニズム anachronismだの、不二山不二山ふじさん Mt Fujiの人格人格じんかく (human) character; personalityだの、神秘的な講義だので、例の例れいの that certain ...女女おんな young ladyの影影かげ form; figureもいっこう頭の中へ出てこなかった。三四郎はそれで満足満足まんぞく satisfaction; contentmentである。母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事食事しょくじ dinnerを済まして済すまして finish、煙草煙草タバコ tobacco; cigaretteを吹かした吹ふかした smoked。その煙煙けむり smokeを見るとさっきの講義を思い出す思おもい出だす remembered; called to mind。

そこへ与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がふらりとふらりと by chance; without notice現われた現あらわれた appeared。どうして学校学校がっこう classes; lecturesを休んだ休やすんだ skipped; missed (classes)かと聞く聞きく askと、貸家貸家かしや rental house捜し捜さがし searching; huntingで学校どころじゃないそうである。

「そんなに急いで急いそいで in a hurry; in a rush越す越こす move; relocateのか」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が聞くと、

「急ぐって先月中先月中せんげつちゅう (during) last monthに越すはずのところをあさっての天長節天長節てんちょうせつ Emperor's Birthday (former national holiday)まで待たした待またした had (them) waitんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか心当こころあたりはないか do you have an idea; do you happen to know (of something)」と言う言いう said; explained。

こんなに忙しがる忙いそがしがる be busy; be pressedくせに、きのうは散歩散歩さんぽ walk; strollだか、貸家捜しだかわからないようにぶらぶらつぶしていた。三四郎にはほとんど合点がいかない合点がてんがいかない find (something) incomprehensible。与次郎はこれを解釈して解釈かいしゃくして explain; elucidate、それは先生先生せんせい professorがいっしょだからさと言った。「元来元来がんらい fundamentally speaking先生が家家うち houseを捜すなんて間違っている間違まちがっている be wrong; be a mistake。けっして捜したことのない男男おとこ manなんだが、きのうはどうかしていたどうかしていた was out of sortsに違いないに違ちがいない there's no doubt ...。おかげで佐竹佐竹さたけ Satake (family name)の邸邸やしき villa; daimyō's suburban residenceでひどい目にひどい目めに terribly; dreadfullyしかられていい面の皮だいい面つらの皮かわだ served (him) right。――君君きみ you (used here as form of address)どこかないか」と急に急きゅうに suddenly催促する催促さいそくする press (someone for something)。与次郎が来た来きた came; calledのはまったくそれが目的目的もくてき purpose; objectiveらしい。よくよく原因原因げんいん background; root (of the matter)を聞いてみると、今の今いまの current; present持ち主持もち主ぬし owner; landlordが高利貸高利貸こうりがし usurer; extortionistで、家賃家賃やちん (house) rentをむやみに上げる上あげる raiseのが、業腹業腹ごうはら resentment; spiteだというので、与次郎がこっちからたちのきたちのき quitting; evacuationを宣告した宣告せんこくした declared; pronouncedのだそうだ。それでは与次郎に責任責任せきにん responsibilityがあるわけだ。

「きょうは大久保大久保おおくぼ Ōkubo (place name)まで行って行いって go (to)みたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八宗八そうはち Sōhachi (Nonomiya's first name)さんの所所ところ placeに寄って寄よって stopped by、よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)さんに会ってきた会あってきた visited。かわいそうにまだ色光沢色光沢いろつや complexion; colorが悪い悪わるい poor (complexion)。――辣薑性辣薑性らっきょうせい pale; colorless (lit: onion-like)の美人美人びじん beauty――おっかさんおっかさん motherが君によろしく言ってよろしく言いって give regards (to someone)くれってことだ。しかしその後後ご afterはあの辺辺へん area; vicinityも穏やかな穏おだやかな quiet; peacefulようだ。轢死轢死れきし death on impact (by train or car)もあれぎりないそうだ」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の話話はなし talk; conversationはそれから、それへと飛んで行く飛とんで行いく jumped around。平生から平生へいぜいから ordinarily締まりのない締しまりのない loose; laxうえに、きょうは家捜し家捜やさがし house huntingで少し少すこし a little; a bitせきこんでせきこんで be agitated; be flurriedいる。話が一段落つく一段いちだん落らくつく settle down; reach a moment's pauseと、相の手相あいの手て interlude; (musical) refrain (usually 合あいの手て)のように、どこかないかないかと聞く聞きく ask。しまいには三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)も笑い出した笑わらい出だした laughed; broke into laughter。

そのうち与次郎の尻が次第におちついてきて尻しりが次第しだいにおちついてきて gradually became comfortable (lit: one's haunches gradually settled themselves)、燈火親しむべし燈火とうか親したしむべし one should embrace the lamplight (based on line in Han Yu poem about reading by lamplight on long and cool autumn evenings) などという漢語漢語かんご Chinese (words)さえ借用して借用しゃくようして borrow; draw onうれしがるようになった。話題話題わだい topicははしなくはしなく by chance; as it happened広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの上に落ちた上うえに落おちた landed on; ended up on。

「君の君きみの your所所ところ place (residence)の先生の名名な nameはなんというのか」

「名は萇萇ちょう Chō (name)」と指指ゆび fingerで書いて見せて書かいて見みせて show how to write (a character)、「艸冠艸冠くさかんむり grass crown ('grass' radical at top position in a character)がよけいだ。字引字引じびき dictionaryにあるかしらん。妙な妙みょうな odd; strange名をつけたものだね」と言う言いう said; remarked。

「高等学校高等こうとう学校がっこう high school (equivalent to modern-day college)の先生か」

「昔昔むかし long agoから今日今日こんにち this day; the presentに至るまでに至いたるまで up until ...高等学校の先生。えらいものだ。十年一日のごとし十年じゅうねん一日いちじつのごとし ten years is like a single dayというが、もう十二、三年十二じゅうに、三年さんねん 12 or 13 yearsになるだろう」

「子供子供こども childrenはおるのか」

「子供どころか、まだ独身独身ひとりみ single; unmarriedだ」

三四郎は少し驚いた驚おどろいた be surprised。あの年年とし ageまで一人一人ひとり single; by oneselfでいられるものかとも疑った疑うたがった found hard to believe。

「なぜ奥さん奥おくさん wifeをもらわないのだろう」

「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理論家理論家りろんか theoreticianなんだ。細君細君さいくん wifeをもらってみないさきから、細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。愚愚ぐ foolishnessだよ。だからしじゅうしじゅう from start to finish; all the time矛盾矛盾むじゅん contradiction; inconsistencyばかりしている。先生、東京東京とうきょう Tōkyōほどきたない所はないように言う。それで石石いし stoneの門門もん gateを見ると恐れをなして恐おそれをなして be frightened; be intimidated、いかんいかんとか、りっぱすぎるとか言うだろう」

「じゃ細君も試みに試こころみに on a trial basis持って持もって have; takeみたらよかろう」

「大いに大おおいに a great dealよしとかなんとか言うかもしれない」

「先生先生せんせい professorは東京東京とうきょう Tōkyōがきたないとか、日本人日本人にほんじん Japanese (people)が醜い醜みにくい ugly; unsightlyとか言う言いう sayが、洋行洋行ようこう traveling abroadでもしたことがあるのか」

「なにするもんか。ああいう人人ひと person; characterなんだ。万事万事ばんじ all things頭頭あたま head; one's thoughtsのほうが事実事実じじつ realityより発達して発達はったつして be developedいるんだからああなるんだね。その代りその代かわり on the other hand西洋西洋せいよう the West; the Occidentは写真写真しゃしん photographsで研究して研究けんきゅうして study; investigateいる。パリの凱旋門凱旋門がいせんもん Arch of Triumph; Arc de Triompheだの、ロンドンの議事堂議事堂ぎじどう Houses of Parliamentだの、たくさん持って持もって have; ownいる。あの写真で日本日本にほん Japanを律する律りっする judge (on the basis of)んだからたまらない。きたないわけさ。それで自分自分じぶん oneselfの住んで住すんで live; resideる所所ところ placeは、いくらきたなくっても存外存外ぞんがい surprisingly; contrary to expectation平気平気へいき unconcernedだから不思議不思議ふしぎ strange; puzzlingだ」

「三等三等さんとう third class汽車汽車きしゃ (steam) trainへ乗って乗のって ride (on)おったぞ」

「きたないきたないって不平不平ふへい complaint; grievanceを言やしないか」

「いやべつに不平も言わなかった」

「しかし先生は哲学者哲学者てつがくしゃ philosopherだね」

「学校学校がっこう schoolで哲学でも教えて教おしえて teachいるのか」

「いや学校じゃ英語英語えいご Englishだけしか受け持って受うけ持もって be charged with; be responsible forいないがね、あの人間人間にんげん personが、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」

「著述著述ちょじゅつ writings; literary workでもあるのか」

「何もない何なにもない there's nothing。時々時々ときどき sometimes; occasionally論文論文ろんぶん essayを書く書かく write事事こと instance (of)はあるが、ちっとも反響反響はんきょう reaction; influenceがない。あれじゃだめだ。まるで世間世間せけん the world; societyが知らない知しらない be unaware ofんだからしようがない。先生、ぼくの事を丸行燈丸行燈まるあんどん round lanternだと言ったが、夫子夫子ふうし (term of address for a teacher)自身自身じしん himselfは偉大な偉大いだいな great; mighty暗闇暗闇くらやみ dark place; voidだ」

「どうかして、世の中世よの中なか societyへ出たら出でたら get out; make appearancesよさそうなものだな」

「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一第一だいいち first of all; to begin withぼくがいなけりゃ三度の飯三度さんどの飯めし three meals (a day)さえ食えない食くえない can't (manage to) eat人なんだ」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまさかといわぬばかりに笑い出した笑わらい出だした laughed。

「嘘嘘うそ lie; falsehoodじゃない。気の毒気きの毒どく patheticなほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女下女げじょ maidservantに命じて命めいじて order; command、先生の気にいるように気きにいるように to (someone's) satisfaction始末をつける始末しまつをつける take care of; handle (beginning to end)んだが――そんな瑣末な瑣末さまつな trivial; trifling事はとにかく、これから大いに大おおいに greatly活動して活動かつどうして take action; take initiative、先生を一つ一ひとつ one (of something)大学大学だいがく university教授教授きょうじゅ (full) professorにしてやろうと思う思おもう think; intend (to do)」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はまじめである。三四郎はその大言大言たいげん big talk; boldnessに驚いた驚おどろいた be surprised (at)。驚いてもかまわない。驚いたままに進行して進行しんこうして continue on、しまいに、

「引っ越し引ひっ越こし move (one's residence)をする時時とき time; occasionはぜひ手伝いに来て手伝てつだいに来きて come and helpくれ」と頼んだ頼たのんだ requested。まるで約束約束やくそく agreement; arrangementのできた家家うち houseがとうからあるごとき口吻口吻こうふん manner of speaking; intimationである。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の帰った帰かえった left; departedのはかれこれかれこれ around; about十時十時じゅうじ ten (o'clock)近く近ちかく almost; close to ...である。一人で一人ひとりで alone; by oneselfすわっていると、どことなく肌寒肌寒はださむ autumn chillの感じ感かんじ feelingがする。ふと気がついたら気きがついたら realized; became aware、机机つくえ deskの前前まえ front ofの窓窓まど windowがまだたてずにたてずに not put up; not shutあった。障子障子しょうじ shōji (sliding paper screen)をあけると月夜月夜つきよ moonlit nightだ。目に触れる目めに触ふれる come into view; catch one's noticeたびに不愉快な不愉快ふゆかいな unpleasant; disagreeable檜檜ひのき hinoki cypressに、青い青あおい pale光り光ひかり lightがさして、黒い黒くろい black; dark影影かげ shadowsの縁縁ふち edgesが少し少すこし a bit; somewhat煙って煙けむって be hazy; be smoky見える見みえる appear。檜に秋秋あき autumnが来た来きた arrivedのは珍しい珍めずらしい strange; curiousと思いながら思おもいながら thinking; considering、雨戸雨戸あまど outside (sliding) door; storm doorをたてた。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はすぐ床床とこ bed; beddingへはいった。三四郎は勉強家勉強家べんきょうか diligent student; hard worker (at one's studies)というよりむしろ彽徊家彽徊家ていかいか dabbler; dilettanteなので、わりあい書物書物しょもつ books; reading materialsを読まない読よまない didn't read。その代りその代かわり on the other hand; at the same timeある掬すべき掬きくすべき empathize with; take into consideration情景情景じょうけい spectacle; sight; sceneにあうと、何べんも何なんべんも repeatedly; any number of timesこれを頭の中頭あたまの中なか in one's head; in one's mindで新たにして新あらたにして bring up anew; replay喜んで喜よろこんで be delighted; be pleasedいる。そのほうが命命いのち lifeに奥行奥行おくゆき depthがあるような気気き feelingがする。きょうも、いつもなら、神秘的神秘的しんぴてき mystical; deep and profound講義講義こうぎ lectureの最中にの最中さいちゅうに in the middle of; at the height of、ぱっと電燈電燈でんとう electric lightingがつくところなどを繰り返して繰くり返かえして replay; reliveうれしがるはずだが、母母はは motherの手紙手紙てがみ letterがあるので、まず、それから片づけ始めた片かたづけ始はじめた began to deal with; began to take care of。

手紙には新蔵新蔵しんぞう Shinzō (name)が蜂蜜蜂蜜はちみつ honeyをくれたから、焼酎焼酎しょうちゅう shōchū (Japanese liquor distilled from various starches)を混ぜて混まぜて mix (with)、毎晩毎晩まいばん each night; every night杯杯さかずき wine cupに一杯一杯いっぱい one cupfulずつ飲んで飲のんで drinkいるとある。新蔵は家家うち house; householdの小作人小作人こさくにん tenant farmerで、毎年毎年まいとし every year冬冬ふゆ winterになると年貢米年貢米ねんぐまい rice paid as rent; tax riceを二十俵二十俵にじゅっぴょう 20 bagsずつ持ってくる持もってくる bring; deliver。いたっていたって very much正直者正直者しょうじきもの honest personだが、癇癪癇癪かんしゃく passion; temperが強い強つよい strong; intenseので、時々時々ときどき sometimes; occasionally女房女房にょうぼう wifeを薪薪まき piece of firewoodでなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂蜂はち beesを飼い出した飼かい出だした started keeping昔の昔むかしの past; bygone事事こと matter; affairまで思い浮かべた思おもい浮うかべた recollected; thought back to。それは五年五年ごねん five yearsほどまえである。裏裏うら back (yard)の椎椎しい chinquapin oakの木木き treeに蜜蜂蜜蜂みつばち honey beesが二、三百匹二に、三百匹さんびゃくひき two or three hundred (bees)ぶら下がってぶら下さがって hanging downいたのを見つけてすぐ籾漏斗籾漏斗もみじょうご funnel used in de-hulling riceに酒酒さけ sakéを吹きかけて吹ふきかけて spray onto、ことごとくことごとく one and all生捕生捕いけどり capturing aliveにした。それからこれを箱箱はこ boxへ入れて入いれて put into、出入り出入ではいり coming and goingのできるような穴穴あな holesをあけて、日当り日当ひあたり exposure to the sunのいい石石いし rockの上上うえ top ofに据えて据すえて position; fix (into a place)やった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つ一ひとつ oneでは足りなく足たりなく be insufficientなる。二つ二ふたつ twoにする。また足りなくなる。三つ三みっつ threeにする。というふうにふやしていった結果結果けっか result、今では今いまでは at presentなんでも六箱六箱ろっぱこ six boxesか七箱七箱ななはこ seven boxesある。そのうちの一箱一箱ひとはこ one boxを年年ねん yearに一度一度いちど onceずつ石からおろして蜂のために蜜蜜みつ honeyを切り取る切きり取とる cleave offといっていた。毎年毎年まいとし every year夏休み夏休なつやすみ summer vacationに帰る帰かえる return homeたびに蜜をあげましょうと言わないことはない言いわないことはない didn't fail to sayが、ついに持ってきたためしがなかった。が、今年今年ことし this yearは物覚え物覚ものおぼえ memory; retentive facultyが急に急きゅうに suddenlyよくなって、年来の年来ねんらいの long-standing約束約束やくそく promiseを履行した履行りこうした fulfilled; delivered onものであろう。

平太郎平太郎へいたろう Heitarō (name)がおやじおやじ fatherの石塔石塔せきとう stone monument; gravestoneを建てた建たてた built; erectedから見にきて見みにきて come and seeくれろと頼みにきた頼たのみにきた came to requestとある。行って行いって goみると、木木き treesも草草くさ grassもはえていない庭庭にわ yard; gardenの赤土赤土あかつち red earthのまん中まん中なか middle; very centerに、御影石御影石みかげいし graniteでできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢自慢じまん prideなのだと書いて書かいて write; relate (in writing)ある。山山やま mountain; mountainsideから切り出す切きり出だす cut away; hew outのに幾日幾日いくか several days; a number of daysとかかかって、それから石屋石屋いしや stone dealerに頼んだら十円十円じゅうえん ten yen取られた取とられた was charged (money)。百姓百姓ひゃくしょう farmerや何か何なにか something (other)にはわからないが、あなたのとこの若旦那若旦那わかだんな young masterは大学校大学校だいがっこう universityへはいっているくらいだから、石石いし stoneの善悪善悪よしあし merits and demerits; quality; worthはきっとわかる。今度今度こんど next time手紙手紙てがみ letter; correspondenceのついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言う言いう askedんだそうだ。――三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はひとりでくすくす笑い出したくすくす笑わらい出だした chuckled; laughed (to oneself)。千駄木千駄木せんだぎ Sendagi (place name)の石門石門いしもん stone gateよりよほど激しい激はげしい extreme; intense。

大学大学だいがく universityの制服制服せいふく uniform; outfitを着た着きた wearing写真写真しゃしん photographをよこせよこせ sendとある。三四郎はいつか撮って撮とって take (photograph)やろうと思いながら思おもいながら thinking; considering、次次つぎ nextへ移る移うつる move on (to)と、案のごとく案あんのごとく sure enough; not unexpectedly三輪田三輪田みわた Miwata (family name)のお光お光みつ Omitsu (name)さんが出てきた出でてきた appeared; was mentioned。――このあいだお光さんのおっかさんおっかさん motherが来て来きて came; called、三四郎さんも近々近々きんきん soon; before long大学を卒業卒業そつぎょう graduationなさることだが、卒業したら家の家うちの our; our family's娘娘むすめ daughterをもらってくれまいかという相談相談そうだん consultation; discussionであった。お光さんは器量器量きりょう appearance; featuresもよし気質気質きだて temperament (usually 気立きだて)も優しい優やさしい gentle; kindし、家に田地田地でんち farmland; rice fieldsもだいぶあるし、その上その上うえ on top of that; moreover家と家との今今いま now; the presentまでの関係関係かんけい connection; relationshipもあることだから、そうしたら双方双方そうほう both sides; both partiesともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書但ただし書がき supplementary clauseがつけてある。――お光さんもうれしがるだろう。――東京東京とうきょう Tōkyōの者者もの peopleは気心が知れない気心きごころが知しれない are unreliableから私私わたし Iはいやじゃ。

三四郎は手紙手紙てがみ letterを巻き返して巻まき返かえして rolled back up、封封ふう envelope (= 封筒ふうとう)に入れて入いれて put into、枕元枕元まくらもと bedside; by one's pillowへ置いた置おいた set; placedまま目を眠った目めを眠つむった closed (his) eyes。鼠鼠ねずみ miceが急に急きゅうに suddenly天井天井てんじょう ceilingであばれだしたあばれだした created a commotionが、やがて静まった静しずまった fell silent; became still。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)には三つ三みっつ threeの世界世界せかい worlds; realitiesができた。一つ一ひとつ oneは遠く遠とおく far awayにある。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)のいわゆる明治十五年明治めいじ十五じゅうご年ねん 15th year of Meiji (1882) [note: story is set in 1907]以前以前いぜん before; prior toの香香か scent; odorがする。すべてが平穏平穏へいおん tranquil; unperturbedである代りに代かわりに in return for ...すべてが寝ぼけて寝ねぼけて half asleepいる。もっとも帰る帰かえる return; go homeに世話はいらない世話せわはいらない be simple; be easy enough。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上いざとならない以上いじょう unless circumstances compelled oneはもどる気気き inclinationがしない。いわば立退場立退場たちのきば place of refugeのようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた脱ぬぎ棄すてた took off; cast aside過去過去かこ pastを、この立退場の中中なか inside; withinへ封じ込めた封ふうじ込こめた shut (something) in; confined。なつかしい母母はは motherさえここに葬った葬ほうむった shelve away; consign to oblivionかと思う思おもう think; considerと、急に急きゅうに suddenlyもったいなくなる。そこで手紙手紙てがみ letter; correspondenceが来た来きた came; arrived時時とき times; occasionsだけは、しばらくこの世界に彽徊して彽徊ていかいして linger (in)旧歓旧歓きゅうかん old pleasures; former feelingsをあたためる。

第二の第二だいにの the second世界のうちには、苔のはえた苔こけのはえた moss-covered煉瓦造り煉瓦造れんがづくり brick constructionがある。片すみ片かたすみ one cornerから片すみを見渡す見渡みわたす look (out) overと、向こう向むこう beyond; the far sideの人人ひと peopleの顔顔かお facesがよくわからないほどに広い広ひろい wide; spacious閲覧室閲覧室えつらんしつ reading roomがある。梯子梯子はしご ladderをかけなければ、手の届きかねる手ての届とどきかねる be unable to reachまで高く高たかく high積み重ねた積つみ重かさねた piled; stacked書物書物しょもつ booksがある。手ずれ手てずれ wear from handling、指指ゆび fingersの垢垢あか dirt; grimeで、黒くなって黒くろくなって become blackいる。金文字金きん文字もじ gold letteringで光って光ひかって shineいる。羊皮羊皮ようひ sheepskin、牛皮牛皮ぎゅうひ cowhide、二百二百にひゃく two hundred年年ねん year前前まえ before; in the pastの紙紙かみ paper、それからすべての上上うえ top ofに積もった積つもった accumulated塵塵ちり dustがある。この塵は二、三十年二に、三十年さんじゅうねん twenty or thirty yearsかかってようやく積もった尊い尊とうとい exalted; sacred塵である。静かな静しずかな quiet明日明日あす future; days to comeに打ち勝つ打うち勝かつ overcome; resistほどの静かな塵である。

第二の世界に動く動うごく move; be active (in)人の影影かげ shape; formを見ると、たいてい不精な不精ぶしょうな unkempt髭髭ひげ mustacheをはやしている。ある者者もの personsは空空そら skyを見て歩いて歩あるいて walk; strollいる。ある者は俯向いて俯向うつむいて with eyes cast downward歩いている。服装服装なり dress; attireは必ず必かならず invariablyきたない。生計生計くらし livelihood; circumstancesはきっと貧乏貧乏びんぼう poor; destituteである。そうして晏如晏如あんじょ calm; at easeとしている。電車電車でんしゃ (electric) trainに取り巻かれながら取とり巻まかれながら be surrounded by、太平の太平たいへいの tranquil; peaceful空気空気くうき airを、通天通天つうてん Tsūten (Bridge) - famous for maple trees and fall colorsに呼吸して呼吸こきゅうして breatheはばからないはばからない not be intimidated; not be constricted。このなかに入る入はいる be included者は、現世現世げんせ present age; the transient worldを知らない知しらない not know; not be familiar withから不幸不幸ふこう unfortunateで、火宅火宅かたく the world of suffering (Buddhist term)をのがれるのがれる avoid; be sparedから幸い幸さいわい fortunateである。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaはこの内内うち within; midstにいる。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)君君くん (suffix of familiarity for males)もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた解げしえた appreciate; understand所所ところ place; positionにいる。出れば出られる出でれば出でられる could leave if (he) wanted to。しかしせっかく解しかけた趣味趣味しゅみ taste; preferenceを思いきって思おもいきって resolutely; decisively捨てる捨すてる cast aside; discardのも残念残念ざんねん disappointment; a shameだ。

第三の第三だいさんの the third世界はさんとしてさんとして brilliant; resplendent (= 燦さんとして)春春はる springtimeのごとくうごいている。電燈電燈でんとう electric lightingがある。銀匙銀匙ぎんさじ silver spoonsがある。歓声歓声かんせい shouts of joyがある。笑語笑語しょうご humorous story; amusing storyがある。泡立つ泡立あわだつ bubble; foamシャンパンの杯杯さかずき wine cupがある。そうしてすべての上上うえ top ofの冠冠かんむり crownとして美しい美うつくしい beautiful; lovely女性女性にょしょう women (usually 女性じょせい)がある。三四郎はその女性の一人一人ひとり one (person)に口をきいた口くちをきいた talked to; spoke to。一人を二へん二にへん two times; twice見た。この世界は三四郎にとって最も最もっとも most深厚な深厚しんこうな meaningful; tangible世界である。この世界は鼻の先にある鼻はなの先さきにある be right before one's nose。ただ近づき難い近ちかづき難がたい difficult to approach。近づき難い点点てん point; aspectにおいて、天外天外てんがい distant heavens; upper atmosphereの稲妻稲妻いなずま bolt of lightningと一般であると一般いっぱんである is much like ...。三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議不思議ふしぎ wondrous; mysteriousに思う思おもう think of (as); regard (as)。自分自分じぶん oneselfがこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥欠陥けっかん flaw; deficiencyができるような気気き feelingがする。自分はこの世界のどこかの主人公主人公しゅじんこう main character; pivotal figureであるべき資格資格しかく qualifications; capabilityを有して有ゆうして have; possessいるらしい。それにもかかわらず、円満の円満えんまんの fulfilling; harmonious発達発達はったつ development; growthをこいねがうこいねがう seek out; yearn for (= 乞こい願ねがう)べきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して束縛そくばくして fetter; constrain、自分が自由に自由じゆに freely; at will出入出入でいり entry and exit; coming and goingすべき通路通路つうろ pathwayをふさいでふさいで close; block offいる。三四郎にはこれが不思議不思議ふしぎ strange; curiousであった。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は床床とこ bed; beddingのなかで、この三つ三みっつ threeの世界世界せかい worlds; realitiesを並べて並ならべて line up; place side by side、互いに互たがいに mutually; with respect to each other比較して比較ひかくして compareみた。次次つぎ nextにこの三つの世界をかき混ぜてかき混まぜて mixed; stirred、そのなかから一つ一ひとつ oneの結果結果けっか result; conclusionを得た得えた attained。――要するに要ようするに in short、国国くに one's native placeから母母はは motherを呼び寄せて呼よび寄よせて call (to one); summon、美しい美うつくしい beautiful細君細君さいくん wifeを迎えて迎むかえて receive; accept、そうして身身み oneselfを学問学問がくもん learning; eruditionにゆだねるゆだねる entrust to; devote oneself toにこしたことはないにこしたことはない there is nothing better than ...。

結果はすこぶる平凡平凡へいぼん commonplace; ordinaryである。けれどもこの結果に到着する到着とうちゃくする arrive (at)まえにいろいろ考えた考かんがえた thought; consideredのだから、思索思索しさく thinking; contemplationの労力労力ろうりょく labor; effortを打算して打算ださんして calculate; take into account、結論結論けつろん conclusionの価値価値かち worth; valueを上下しやすい上下しょうかしやすい be apt to raise or lower思索家思索家しさくか thinker自身自身じしん oneselfからみると、それほど平凡ではなかった。

ただこうすると広い広ひろい wide; expansive第三の第三だいさんの the third世界世界せかい world; realityを眇たる眇びょうたる tiny; insignificant一個の一個いっこの one; single細君で代表させる代表だいひょうさせる take as representative; make the focal point ofことになる。美しい女性女性じょせい womenはたくさんある。美しい女性を翻訳する翻訳ほんやくする translateといろいろになる。――三四郎は広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaにならって、翻訳という字字じ wordを使って使つかって use; applyみた。――いやしくもいやしくも any; in the least人格上の人格上じんかくじょうの in relation to human character言葉言葉ことば word; expressionに翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる生しょうずる come about感化感化かんか influence; inspirationの範囲範囲はんい scope; extentを広くして、自己の自己じこの one's own; personal個性個性こせい character; individualityを全からしむる全すべからしむる perfect; completeために、なるべく多くの多おおくの many; numerous美しい女性に接触しなければならない接触せっしょくしなければならない have to come into contact with。細君一人一人ひとり one (person)を知って知しって know; be familiar with甘んずる甘あまんずる be content withのは、進んで進すすんで willfully自己の発達発達はったつ development; growthを不完全不完全ふかんぜん incomplete; imperfectにするようなものである。

三四郎は論理論理ろんり logicをここまで延長して延長えんちょうして extendみて、少し少すこし a little; a bit広田さんにかぶれたかぶれた be influenced byなと思った思おもった realized。実際のところは実際じっさいのところは in actuality、これほど痛切に痛切つうせつに sharply; keenly不足不足ふそく deficiencyを感じていなかった感かんじていなかった hadn't feltからである。

翌日翌日よくじつ the following day学校学校がっこう universityへ出る出でる arrive (at)と講義講義こうぎ lecturesは例によって例れいによって as usual; as alwaysつまらないが、室内室内しつない within the roomの空気空気くうき air; atmosphereは依然として依然いぜんとして still俗俗ぞく the (common) worldを離れて離はなれて separated from; apart fromいるので、午後午後ごご afternoon三時三時さんじ three (o'clock)までのあいだに、すっかり第二の第二だいにの the second世界の人人ひと personとなりおおせてなりおおせて managed to become (= 成なり果おおせて)、さも偉人偉人いじん man of greatnessのような態度態度たいど outlook; attitudeをもって、追分追分おいわけ Oiwake (place name)の交番交番こうばん police boxの前前まえ front ofまで来る来くる come (to); arrive (at)と、ばったり与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に出会った出会であった met; ran into。

「アハハハ。アハハハ」

偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。交番の巡査巡査じゅんさ (police) officerさえ薄笑い薄笑うすわらい faint smile; grinをしている。

「なんだ」

「なんだもないものだ。もう少し普通の普通ふつうの normal; ordinary人間人間にんげん person; human beingらしく歩く歩あるく walkがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」

三四郎にはこの洋語洋語ようご Western languageの意味意味いみ meaningがよくわからなかった。しかたがないから、

「家家うち houseはあったか」と聞いた聞きいた asked。

「その事事こと matter; affairで今今いま just now君の君きみの your所所ところ placeへ行った行いった went (to)んだ――あすいよいよ引っ越す引ひっ越こす move (one's residence)。手伝い手伝てつだい help; assistanceに来てくれ」

「どこへ越す」

「西片町十番地への三号西片町にしかたまち十番地じゅうばんちへの三号さんごう Nishikatamachi 10-3 (street address)。九時九時くじ nine (o'clock)までに向こう向むこう (over) thereへ行って掃除掃除そうじ cleaning; sweepingをしてね。待っててくれ待まっててくれ wait (for me)。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬失敬しっけい pardon (for taking one's leave)」

与次郎は急いで急いそいで in a hurry行き過ぎた行いき過すぎた went on (one's way)。三四郎も急いで下宿下宿げしゅく dorm; lodgingsへ帰った帰かえった returned (to)。その晩晩ばん evening取って返して取とって返かえして hurry back; retrace one's steps、図書館図書館としょかん libraryでロマンチック・アイロニーという句句く phraseを調べて調しらべて check; investigateみたら、ドイツのシュレーゲルシュレーゲル (Karl Wilhelm) Friedrich Schlegelが唱えだした唱となえだした advocated; set forth言葉で、なんでも天才天才てんさい genius; prodigyというものは、目的目的もくてき purpose; objectiveも努力努力どりょく effortもなく、終日終日しゅうじつ all day; morning to nightぶらぶらぶらついてぶらついて stroll; loiterいなくってはだめだという説説せつ theory; doctrineだと書いてあった書かいてあった was written。三四郎はようやく安心して安心あんしんして be put at ease、下宿へ帰って、すぐ寝た寝ねた went to bed。

あくる日あくる日ひ the next dayは約束約束やくそく promise; commitmentだから、天長節天長節てんちょうせつ Emperor's Birthday (former national holiday)にもかかわらず、例刻例刻れいこく the regular time; the usual timeに起きて起おきて get up、学校学校がっこう universityへ行く行いく go (to)つもりで西片町十番地西片町にしかたまち十番地じゅうばんち Nishikatamachi 10へはいって、への三号への三号さんごう Number 3を調べて調しらべて search outみると、妙に妙みょうに oddly; curiously細い細ほそい narrow通り通とおり streetの中ほど中なかほど middleにある。古い古ふるい old家家いえ houseだ。

玄関玄関げんかん entry hallの代りにの代かわりに in place of ...西洋間西洋間せいようま Western-style roomが一つ一ひとつ one突き出して突つき出だして protrude; stick outいて、それと鉤の手に鉤かぎの手てに at a right angle to座敷座敷ざしき living room; parlorがある。座敷のうしろが茶の間茶ちゃの間ま tea room; hearth roomで、茶の間の向こう向むこう far sideが勝手勝手かって kitchen、下女部屋下女げじょ部屋べや maidservant quartersと順に順じゅんに in order並んで並ならんで be lined upいる。ほかに二階二階にかい second floorがある。ただし何畳何畳なんじょう how large (lit: how many tatami mats)だかわからない。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は掃除掃除そうじ cleaning; sweepingを頼まれた頼たのまれた was requested; was asked (to do)のだが、べつに掃除をする必要必要ひつよう necessityもないと認めた認みとめた judged; assessed。むろんきれいじゃない。しかし何といって何なんといって at any rate、取って捨てべきもの取とって捨すてべきもの things to be taken away; things to be thrown outも見当らない見当みあたらない were not to be found。しいて捨てれば畳畳たたみ tatami; flooring mats建具建具たてぐ fittings and fixturesぐらいなものだと考えながら考かんがえながら thinking; considering、雨戸雨戸あまど outside (sliding) door; storm doorだけをあけて、座敷の椽側椽側えんがわ verandaへ腰をかけて腰こしをかけて sat down庭庭にわ yard; gardenをながめていた。

大きな大おおきな large百日紅百日紅ひゃくじつこう crape myrtle (tree/shrub known for its long-lasting flowers)がある。しかしこれは根根ね rootsが隣隣となり next door; neighboring (yard)にあるので、幹幹みき trunkの半分半分はんぶん half以上以上いじょう more than ...が横横よこ sidewaysに杉垣杉垣すぎがき cedar fenceから、こっちの領分領分りょうぶん territoryをおかしておかして violate; infringe (upon)いるだけである。大きな桜桜さくら cherry treeがある。これはたしかに垣根垣根かきね fenceの中中なか insideにはえている。その代りその代かわり on the other hand枝枝えだ branchesが半分往来往来おうらい road; streetへ逃げ出して逃にげ出だして escape out toward、もう少し少すこし a little; a bitすると電話電話でんわ telephone (lines)の妨害妨害ぼうがい obstruction; interferenceになる。菊菊きく chrysanthemumが一株一株ひとかぶ one plantある。けれども寒菊寒菊かんぎく winter chrysanthemumとみえて、いっこう咲いて咲さいて bloom; blossomいない。このほかにはなんにもない。気の毒な気きの毒どくな pitifulような庭である。ただ土土つち earth; soilだけは平ら平たいら flat; levelで、肌理肌理きめ textureが細か細こまか small; fineではなはだはなはだ very美しい美うつくしい beautiful。三四郎は土を見て見みて look atいた。じっさい土を見るようにできた庭である。

そのうち高等学校高等こうとう学校がっこう high schoolで天長節の式式しき ceremonyの始まる始はじまる start; beginベルが鳴りだした鳴なりだした rang out。三四郎はベルを聞きながら聞ききながら listen to九時九時くじ nine (o'clock)がきたんだろうと考えた考かんがえた thought; became aware (of)。何もしないで何なにもしないで without doing anythingいても悪い悪わるい not good; improperから、桜の枯葉枯葉かれは dead leavesでも掃こう掃はこう sweep upかしらんとようやく気がついた気きがついた decided (to do)時時とき time; moment、また箒箒ほうき broomがないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分二分にふん two minutesもしたかと思うと、庭木戸庭にわ木戸きど garden gateがすうとあいた。そうして思いもよらぬ池池いけ pondの女女おんな young ladyが庭の中にあらわれた。

二方二方にほう two sidesは生垣生垣いけがき hedgeで仕切ってある仕切しきってある be enclosed (by)。四角な四角しかくな square庭庭にわ yard; gardenは十坪十坪とうつぼ 10 tsubo (about 33 sq meters; about 40 sq yards)に足りないに足たりない did not amount to ...。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はこの狭い狭せまい narrow; confined囲い囲かこい enclosureの中中なか middle; insideに立った立たった stood池池いけ pondの女女おんな young ladyを見る見みる see; catch sight ofやいなや、たちまち悟った悟さとった became aware of; realized。――花花はな flowersは必ず必かならず absolutely; without fail剪って剪きって cut; clip、瓶裏瓶裏へいり jar; vaseにながむながむ view; look upon (= 眺ながめる)べきものである。

この時時とき moment; occasion三四郎の腰腰こし hips; haunchesは椽側椽側えんがわ verandaを離れた離はなれた separated from; moved away from。女は折戸折戸おりど (hinged) gateを離れた。

「失礼でございますが失礼しつれいでございますが excuse me, but ...……」

女はこの句句く phraseを冒頭に置いて冒頭ぼうとうに置おいて begin with; lead off with会釈した会釈えしゃくした greeting; bow。腰から上上うえ aboveを例のとおり例れいのとおり as before前前まえ forwardへ浮かした浮うかした floatedが、顔顔かお faceはけっして下げない下さげない didn't lower。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉咽喉のど throatが正面から正面しょうめんから from the front; from straight on見ると長く延びた長ながく延のびた lengthened。同時に同時どうじに at the same timeその目目め eyesが三四郎の眸眸ひとみ pupilsに映った映うつった were reflected。

二、三日二に、三日さんにち two or three daysまえ三四郎は美学美学びがく aestheticsの教師教師きょうし instructorからグルーズグルーズ Jean-Baptiste Greuze (French painter; 1725–1805)の絵絵え painting; portraitを見せてもらった。その時時とき time; occasion美学の教師が、この人人ひと person; manのかいた女の肖像肖像しょうぞう portraitはことごとくヴォラプチュアスなヴォラプチュアスな voluptuous表情表情ひょうじょう facial expression; countenanceに富んでいるに富とんでいる be rich in ...; be endowed with ...と説明した説明せつめいした explained。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つき目めつき look (in one's eyes)を形容する形容けいようする describeにはこれよりほかに言葉言葉ことば wordがない。何か何なにか somehow訴えて訴うったえて appeal to (one's emotions)いる。艶なる艶えんなる charming; enchantingあるものを訴えている。そうしてまさしく官能官能かんのう sensualityに訴えている。けれども官能の骨骨ほね bonesをとおして髄髄ずい marrowに徹する徹てっする penetrate (to)訴え方訴うったえ方かた manner of appealing toである。甘い甘あまい sweetものに堪えうる堪たえうる be able to bear; be able to endure程度程度ていど extent; degreeをこえて、激しい激はげしい violent刺激刺激しげき stimulus; provocationと変ずる変へんずる change (to); be transformed (into)訴え方である。甘いといわんよりは苦痛苦痛くつう agonyである。卑しく卑いやしく vulgar; vileこびるこびる flatter; fawn upon (媚こびる)のとはむろん違う違ちがう be different (from)。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な残酷ざんこくな cruel; merciless目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似た似にた resembleところは一つ一ひとつ one (thing)もない。目はグルーズのより半分も半分はんぶんも by half小さい小ちいさい small。

「広田広田ひろた (Professor) Hirotaさんのお移転になるお移転こしになる move (one's residence)のは、こちらでございましょうか」

「はあ、ここです」

女の声声こえ voiceと調子調子ちょうし tone; manner (of speaking)に比べる比くらべる compareと、三四郎の答答こたえ answer; responseはすこぶるぶっきらぼうぶっきらぼう curt; bluntである。三四郎も気がついて気きがついて be aware ofいる。けれどもほかに言いよう言いいよう way of saying; manner of speakingがなかった。

「まだお移りにならないお移うつりにならない hasn't movedんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のように普通ふつうのように as is commonあとを濁さないあとを濁にごさない didn't equivocate; didn't speak noncommittally。

「まだ来ませんまだ来きません not yet arrived。もう来る来くる come; arriveでしょう」

女女おんな young ladyはしばししばし for a while (= しばらく)ためらったためらった hesitated; paused。手手て handに大きな大おおきな large籃籃バスケット basketをさげている。女の着物着物きもの kimono (pattern)は例によって例れいによって as always、わからないわからない unfamiliar。ただいつものように光らない光ひからない subtle; not flashyだけが目についた目めについた was apparent; caught one's notice。地地じ (base) fabricがなんだかぶつぶつしているぶつぶつしている be textured; be bumpy。それに縞縞しま stripesだか模様模様もよう patternsだかある。その模様がいかにもでたらめでたらめ incoherent; randomである。

上上うえ aboveから桜桜さくら cherry treeの葉葉は leafが時々時々ときどき occasionally落ちて落おちて fallくる。その一つ一ひとつ oneが籃の蓋蓋ふた lidの上に乗った乗のった alighted on。乗ったと思う思おもう notice; realizeうちに吹かれて吹ふかれて be blownいった。風風かぜ (gust of) wind; breezeが女を包んだ包つつんだ wrapped; enveloped。女は秋秋あき autumnの中中なか midstに立って立たって standいる。

「あなたは……」

風が隣隣となり next doorへ越した越こした moved on to; crossed over into時分時分じぶん time; moment、女が三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)に聞いた聞きいた asked; inquired。

「掃除掃除そうじ cleaning; sweepingに頼まれて頼たのまれて asked (to do something)来た来きた cameのです」と言った言いった said; repliedが、現に現げんに actually; in fact腰をかけて腰こしをかけて sit downぽかんとしてぽかんとして vacantly; absentmindedlyいたところを見られた見みられた was seenのだから、三四郎は自分自分じぶん oneselfでおかしくなった。すると女も笑いながら笑わらいながら smiling、

「じゃ私私わたし Iも少し少すこし a little; a bitお待ち申しましょうお待まち申もうしましょう waitか」と言った。その言い方言いい方かた manner of speakingが三四郎に許諾許諾きょだく consentを求める求もとめる seekように聞こえた聞きこえた sounded (like)ので、三四郎は大いに大おおいに greatly愉快愉快ゆかい content; happyであった。そこで「ああ」と答えた答こたえた answered。三四郎の了見了見りょうけん intentionでは、「ああ、お待ちなさい」を略した略りゃくした abbreviatedつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、

「あなたは……」と向こう向むこう the other partyで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽椽えん verandaの上へ置いて置おいて set; place、帯帯おび sashの間間あいだ midst; withinから、一枚一枚いちまい one (flat object)の名刺名刺めいし calling cardを出して出だして take out; produce、三四郎にくれた。

名刺には里見里見さとみ Satomi (family name)美禰子美禰子みねこ Mineko (first name)とあった。本郷本郷ほんごう Hongō (place name)真砂町真砂町まさごちょう Masagochō (subdistrict of Hongō)だから谷谷たに valleyを越すとすぐ向こうである。三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。

「あなたにはお目にかかりましたお目めにかかりました saw; encounteredな」と名刺を袂袂たもと sleeve pocketへ入れた入いれた put into三四郎が顔顔かお faceをあげた。

「はあ。いつか病院病院びょういん hospitalで……」と言って女もこっちを向いた。

「まだある」

「それから池池いけ pondの端端はた edgeで……」と女はすぐ言った。よく覚えて覚おぼえて rememberいる。三四郎はそれで言う事事こと things; mattersがなくなった。女は最後に最後さいごに finally、

「どうも失礼いたしましたどうも失礼しつれいいたしました I'm sorry if I was impolite」と句切りをつけた句切くぎりをつけた brought to closureので、三四郎は、

「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔簡潔かんけつ brevity; simplicityである。二人二人ふたり two (people)は桜の枝枝えだ branchesを見ていた。梢梢こずえ branch endsに虫虫むし bugs; insectsの食った食くった ate; chewedような葉がわずかばかり残って残のこって remainいる。引っ越し引ひっ越こし movingの荷物荷物にもつ boxes; waresはなかなかやってこない。

「なにか先生先生せんせい professorに御用御用ごよう businessなんですか」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は突然突然とつぜん abruptlyこう聞いた聞きいた asked。高い高たかい tall桜桜さくら cherry treeの枯枝枯枝かれえだ withered branchesを余念なく余念よねんなく attentivelyながめていた女女おんな young ladyは、急に急きゅうに quickly三四郎の方方ほう directionを振りむく振ふりむく turned back (toward)。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つき顔かおつき facial expressionであった。しかし答答こたえ reply; answerは尋常尋常じんじょう common; usualである。

「私私わたし Iもお手伝いお手伝てつだい help; assistanceに頼まれました頼たのまれました was asked (to do something)」

三四郎はこの時時とき time; momentはじめて気がついて気きがついて pay attention; notice見る見みる lookと、女の腰をかけて腰こしをかけて sitいる椽椽えん verandaに砂砂すな sandがいっぱいたまっている。

「砂でたいへんだ。着物着物きもの kimonoがよごれます」

「ええ」と左右左右さゆう left and rightをながめたぎりである。腰を上げない腰こしを上あげない did not get up。しばらく椽を見回した見回みまわした looked around; surveyed目目め eyesを、三四郎に移す移うつす shift (toward)やいなや、

「掃除掃除そうじ cleaning; sweepingはもうなすったんですか」と聞いた。笑って笑わらって smileいる。三四郎はその笑いのなかに慣れやすい慣なれやすい ; easy to grow accustomed to; easy to feel comfortable withあるものを認めた認みとめた recognized。

「まだやらんです」

「お手伝いをして、いっしょに始めましょう始はじめましょう get startedか」

三四郎はすぐに立った立たった rose; got up。女は動かない動うごかない didn't move。腰をかけたまま、箒箒ほうき broomやはたきはたき dusterのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらでてぶらで with empty hands来た来きた came; arrivedのだから、どこにもない、なんなら通り通とおり street; roadへ行って買ってこよう行いって買かってこよう go out and buyかと聞くと、それはむだだから、隣隣となり next doorで借りる借かりる borrowほうがよかろうと言う言いう said; replied。三四郎はすぐ隣へ行った。さっそく箒とはたきと、それからバケツと雑巾雑巾ぞうきん cleaning ragまで借りて急いで帰ってくる急いそいで帰かえってくる come hurrying backと、女は依然として依然いぜんとして as beforeもとの所所ところ placeへ腰をかけて、高い桜の枝枝えだ branchesをながめていた。

「あって……」と一口一口ひとくち one word言っただけである。

三四郎は箒を肩へかついで肩かたへかついで carry over one's shoulder、バケツを右の手右みぎの手て right handへぶら下げてぶら下さげて carry「ええありました」とあたりまえのことを答えた答こたえた answered。

女は白足袋白足袋しろたび white socks (with split toe for sandal strap)のまま砂だらけの椽側椽側えんがわ verandaへ上がった上あがった stepped up (onto)。歩く歩あるく walkと細い細ほそい slender足のあと足さしのあと footprintsができる。袂袂たもと sleeve pocketから白い白しろい white前だれ前まえだれ apronを出して出だして took out帯帯おび sashの上上うえ aboveから締めた締しめた tied; secured。その前だれの縁縁ふち edge; borderがレースのようにかがってかがって sew; stitchある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色色いろ colorである。女は箒を取った取とった took。

「いったんはき出しましょうはき出だしましょう sweep out」と言いながら、袖の裏袖そでの裏うら sleeve opening (along back edge of kimono sleeve)から右の手右みぎの手て right armを出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕二にの腕うで upper armまで出た。かついだ袂の端端はじ end; edge (usually 端はし)からは美しい美うつくしい beautiful襦袢襦袢じゅばん undergarment; under layerの袖が見える。茫然として茫然ぼうぜんとして blankly; absentmindedly立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして鳴なららして clank; rattle勝手口勝手口かってぐち kitchen door; service entranceへ回った回まわった went around (to)。

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が掃く掃はく sweepあとを、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が雑巾雑巾ぞうきん cleaning ragをかける。三四郎が畳畳たたみ tatami (mats)をたたくあいだに、美禰子が障子障子しょうじ shōjiをはたくはたく dust off。どうかこうか掃除掃除そうじ cleaningがひととおりひととおり once over済んだ済すんだ be finished時時とき timeは二人二人ふたり two peopleともだいぶ親しくなった親したしくなった were on friendly terms。

三四郎がバケツの水水みず waterを取り換え取とり換かえ exchange; change outに台所台所だいどころ kitchenへ行った行いった went (to)あとで、美禰子がはたきはたき dusterと箒箒ほうき broomを持って持もって hold; carry二階二階にかい 2nd floor; upstairsへ上がった上あがった went up (to)。

「ちょっと来て来きて comeください」と上上うえ aboveから三四郎を呼ぶ呼よぶ call for。

「なんですか」とバケツをさげた三四郎が梯子段梯子段はしごだん staircaseの下下した below; bottomから言う言いう say; reply。女女おんな young ladyは暗い暗くらい dark所所ところ placeに立って立たって standいる。前だれ前まえだれ apronだけがまっ白まっ白しろ pure whiteだ。三四郎はバケツをさげたまま二、三段二に、三段さんだん two or three steps上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い薄暗うすぐらい dim所で美禰子の顔顔かお faceと三四郎の顔が一尺一尺いっしゃく 1 shaku (about 30 cm; about 1 foot)ばかりの距離距離きょり distanceに来た。

「なんですか」

「なんだか暗くってわからないの」

「なぜ」

「なぜでも」

三四郎は追窮する追窮ついきゅうする inquire further; press a matter気気き intentionがなくなった。美禰子のそばをすり抜けてすり抜ぬけて slip past上へ出た出でた arrived。バケツを暗い椽側椽側えんがわ balcony; outer corridorへ置いて置おいて place; set down戸戸と (storm) shutterをあける。なるほど桟桟さん sliding window boltのぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。

「まだあからなくってまだあからなくって Won't open yet?」

美禰子は反対反対はんたい oppositeの側側がわ sideへ行った。

「こっちです」

三四郎は黙って黙だまって without speaking、美禰子の方方ほう directionへ近寄った近寄ちかよった approached。もう少し少すこし a little; a bitで美禰子の手手て handに自分の自分じぶんの one's own手が触れる所触ふれる所ところ just short of touchingで、バケツに蹴つまずいた蹴けつまずいた stumbled over (= 躓つまずいた)。大きな音大おおきな音おと loud sound; loud noiseがする。ようやくのことで戸を一枚一枚いちまい one (door)あけると、強い強つよい strong日日ひ sunlightがまともにさし込んださし込こんだ poured in。まぼしいまぼしい blinding (= まぶしい)くらいである。二人二人ふたり two (people)は顔を見合わせて顔かおを見合みあわせて look at each other思わず思おもわず on impulse笑い出した笑わらい出だした laughed。

裏裏うら back (side)の窓窓まど windowもあける。窓には竹竹たけ bambooの格子格子こうし latticeがついている。家主家主やぬし landlord; property ownerの庭庭にわ yard; gardenが見える見みえる be visible。鶏鶏とり chickensを飼って飼かって keep; raise (pets or livestock)いる。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は例のごとく例れいのごとく as before掃き出した掃はき出だした swept out。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は四つ這い四よっつ這ばい on hands and kneesになって、あとから拭き出した拭ふき出だした wiped up。美禰子は箒箒ほうき broomを両手両手りょうて both handsで持った持もった heldまま、三四郎の姿姿すがた shape; formを見て、

「まあ」と言った言いった said; exclaimed。

やがて、箒を畳畳たたみ tatami (mats)の上上うえ top ofへなげ出してなげ出だして tossed aside; laid aside、裏の窓の所所ところ place; vicinity ofへ行って行いって went (to)、立ったまま立たったまま standing there外面外面そと outsideをながめている。そのうち三四郎も拭き終った拭ふき終おわった finished wiping。ぬれ雑巾ぬれ雑巾ぞうきん wet ragをバケツの中中なか insideへぼちゃんとぼちゃんと with a splash; with a plopたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ来きて並ならんだ came up next to。

「何何なに whatを見ているんです」

「あててごらんなさい」

「鶏鶏とり chickensですか」

「いいえ」

「あの大きな大おおきな large木木き treeですか」

「いいえ」

「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

「私私わたし Iさっきからあの白い白しろい white雲雲くも cloudを見ておりますの」

なるほど白い雲が大きな空空そら skyを渡って渡わたって cross; traverseいる。空はかぎりなく晴れて晴はれて clear (weather)、どこまでも青く青あおく blue澄んで澄すんで be clear; be transparentいる上を、綿綿わた cottonの光った光ひかった shineような濃い濃こい dense; solid雲がしきりに飛んで行く飛とんで行いく blow by; float by (on the wind)。風風かぜ windの力力ちから force; powerが激しい激はげしい furious; intenseと見えて、雲の端端はし edge; tipが吹き散らされる吹ふき散ちらされる be blown about; be buffetedと、青い地地じ base; backgroundがすいて見えるほどに薄く薄うすく thinなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって塊かたまって clump; cluster together、白く柔かな柔やわらかな soft針針はり needlesを集めた集あつめた gathered; formedように、ささくれだつささくれだつ split finely。美禰子はそのかたまりを指さして指ゆびさして point out; indicate言った。

「駝鳥駝鳥だちょう ostrichの襟巻襟巻ボーア boa (decorative scarf made of feathers)に似て似にて resembleいるでしょう」

三四郎はボーアという言葉言葉ことば wordを知らなかった知しらなかった didn't know。それで知らないと言った。美禰子はまた、

「まあ」と言ったが、すぐ丁寧に丁寧ていねいに respectfully; patientlyボーアを説明して説明せつめいして explainくれた。その時三四郎は、

「うん、あれなら知っとる」と言った。そうして、あの白い雲はみんな雪雪ゆき snowの粉粉こ powder; dustで、下下した belowから見てあのくらいに動く動うごく move; be in motion以上以上いじょう given that ...は、颶風颶風ぐふう typhoon; cyclone以上以上いじょう more than; in excess (of)の速度速度そくど speed; velocityでなくてはならないと、このあいだ野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんから聞いた聞きいた heardとおりを教えた教おしえた told (of); informed。美禰子は、

「あらそう」と言いながら三四郎を見たが、

「雪じゃつまらないわね」と否定否定ひてい repudiationを許さぬ許ゆるさぬ won't allow; won't tolerateような調子調子ちょうし tone (of voice)であった。

「なぜです」

「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠く遠とおく distanceからながめているかいがないじゃありませんか」

「そうですか」

「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

「あなたは高い高たかい high; lofty所を見るのが好き好すき (to one's) likingのようですな」

「ええ」

美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る飛とんで来くる come flying。

ところへ遠く遠とおく distanceから荷車荷車にぐるま cart; wagonの音音おと soundが聞こえる聞きこえる could be heard。今今いま now; just now静かな静しずかな still; quiet横町横町よこちょう side street; laneを曲がって曲まがって turned (onto)、こっちへ近づいて来る近ちかづいて来くる draw nearのが地響き地響じひびき rumbling (through the ground)でよくわかる。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は「来た来きた they're here」と言った言いった said。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は「早いのね早はやいのね already; so soon」と言ったままじっとしている。車車くるま car; cartの音の動く動うごく moveのが、白い白しろい white雲雲くも cloudsの動くのに関係関係かんけい connectionでもあるように耳をすまして耳みみをすまして listen carefully; strain one's earsいる。車はおちついた秋秋あき autumnの中中なか middle; midstを容赦なく容赦ようしゃなく relentlessly近づいて来る。やがて門門もん gateの前前まえ front ofへ来てとまった。

三四郎は美禰子を捨てて捨すてて leave behind二階二階にかい 2nd floor; upstairsを駆け降りた駆かけ降おりた raced down (from)。三四郎が玄関玄関げんかん entrance; entrywayへ出る出でる appear (at); arrive (at)のと、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が門をはいるのとが同時同刻同時どうじ同刻どうこく same time; simultaneousであった。

「早いな」と与次郎がまず声をかけた声こえをかけた called out。

「おそいな」と三四郎が答えた答こたえた answered; replied。美禰子とは反対反対はんたい oppositeである。

「おそいって、荷物荷物にもつ thingsを一度一度いちど once; one timeに出した出だした put out; moved outんだからしかたがない。それにぼく一人一人ひとり aloneだから。あとは下女下女げじょ maidservantと車屋車屋くるまや rickshaw manばかりでどうすることもできない」

「先生先生せんせい professorは」

「先生は学校学校がっこう school」

二人二人ふたり two (people)が話話はなし talk; conversationを始めて始はじめて beginいるうちに、車屋が荷物をおろし始めた。下女もはいって来た。台所台所だいどころ kitchenの方方ほう direction; alternativeを下女と車屋に頼んで頼たのんで request、与次郎と三四郎は書物書物しょもつ booksを西洋間西洋間せいようま Western-style roomへ入れる入いれる put into。書物がたくさんある。並べる並ならべる line up; organizeのは一仕事一仕事ひとしごと significant task; hard workだ。

「里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)のお嬢さんお嬢じょうさん young ladyは、まだ来ていないか」

「来ている」

「どこに」

「二階にいる」

「二階に何何なに whatをしている」

「何をしているか、二階にいる」

「冗談じゃない冗談じょうだんじゃない you've got to be kidding me」

与次郎は本本ほん bookを一冊一冊いっさつ one volume (book)持った持もった hold; carryまま、廊下伝いに廊下ろうか伝づたいに following the corridor梯子段梯子段はしごだん staircaseの下下した bottomまで行って行いって went (to)、例のとおりの例れいのとおりの usual; characteristic声声こえ voice; toneで、

「里見さん、里見さん。書物をかたづけるから、ちょっと手伝って手伝てつだって help outください」と言う。

「ただ今参りますただ今参いままいります coming; be there in a minute」

箒箒ほうき broomとはたきはたき dusterを持って、美禰子は静かに静しずかに quietly; calmly降りて来た降おりて来きた came down。

「何をしていたんです」と下から与次郎がせきたてるせきたてる urge; pressように聞く聞きく ask。

「二階のお掃除お掃除そうじ cleaning」と上上うえ aboveから返事返事へんじ replyがあった。

降りる降おりる descend; come downのを待ちかねて待まちかねて be restless; be impatient for、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は美禰子美禰子みねこ Mineko (name)を西洋間西洋間せいようま Western-style roomの戸口戸口とぐち doorwayの所所ところ place; locationへ連れて来た連つれて来きた brought; led。車力車力しゃりき driver; cartmanのおろした書物書物しょもつ booksがいっぱい積んで積つんで be piled; be stackedある。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)がその中中なか middle; midstへ、向こうむき向むこうむき facing away; facing the opposite directionにしゃがんで、しきりにしきりに eagerly; intently何か何なにか something読み始めて読よみ始はじめて starting to readいる。

「まあたいへんね。これをどうするの」と美禰子が言った言いった said; remarked時時とき time; moment、三四郎はしゃがみながら振り返った振ふり返かえった turned to look behind。にやにや笑ってにやにや笑わらって grin; smileいる。

「たいへんもなにもありゃしない。これを部屋部屋へや roomの中へ入れて入いれて put into; bring into、片づける片かたづける arrange; organizeんです。いまに先生先生せんせい professorも帰って来て帰かえって来きて come back手伝う手伝てつだう help outはずだからわけはないわけはない nothing to it; no problem。――君君きみ you (used here as form of address)、しゃがんで本本ほん bookなんぞ読みだしちゃ困る困こまる can't have (someone doing something); is unacceptable。あとで借りて借かりて borrowいってゆっくり読むがいい」と与次郎が小言小言こごと complaintを言う。

美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って受うけ取とって receive; take部屋の中の書棚書棚しょだな bookshelvesへ並べる並ならべる arrange; line upという役割役割やくわり roles; dutiesができた。

「そう乱暴に乱暴らんぼうに recklessly; carelessly、出しちゃ出だしちゃ put forth; present困る。まだこの続き続つづき next (volume); next (in a series)が一冊一冊いっさつ one volumeあるはずだ」と与次郎が青い青あおい blue平たい平ひらたい thin本を振り回す振ふり回まわす waved。

「だってないんですもの」

「なにないことがあるものか」

「あった、あった」と三四郎が言う。

「どら、拝見拝見はいけん let's see」と美禰子が顔顔かお faceを寄せて来る寄よせて来くる bring close。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」

「あらあったもないもんだ。早く早はやく quickly; promptlyお出しなさいお出だしなさい hand it over; hand it here」

三人三人さんにん three (people)は約約やく about; around三十分三十分さんじっぷん thirty minutesばかり根気に根気こんきに diligently; energetically働いた働はたらいた worked。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなったせっつかなくなった slackened one's pace; lost one's sense of urgency。見る見みる lookと書棚の方方ほう directionを向いてあぐらをかいて黙って黙だまって be silentいる。美禰子は三四郎の肩肩かた shoulderをちょっと突っついた突つっついた tapped; poked。三四郎は笑いながら、

「おいどうした」と聞く聞きく ask。

「うん。先生もまあ、こんなにいりもしないいりもしない unneeded; unnecessary本を集めて集あつめて collect; gatherどうする気気き intentionかなあ。まったく人泣かせ人泣ひとなかせ annoyance; nuisanceだ。いまこれを売って売うって sell株株かぶ stocks; sharesでも買っておく買かっておく buy upともうかるんだが、しかたがない」と嘆息した嘆息かんそくした sighed; lamentedまま、やはり壁壁かべ wallを向いてあぐらをかいている。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は顔を見合わせて顔かおを見合みあわせて looked at each other笑った笑わらった laughed。肝心肝心かんじん essential; crucialの主脳主脳しゅのう head; leaderが動かない動うごかない not moving; at a standstillので、二人二人ふたり two (people)とも書物書物しょもつ booksをそろえるのを控えて控ひかえて hold back; refrainいる。三四郎は詩詩し poems; poetryの本本ほん bookをひねくり出したひねくり出だした worked free; wrested out。美禰子は大きな大おおきな large画帖画帖がじょう picture bookを膝膝ひざ lapの上上うえ top ofに開いた開ひらいた opened。勝手勝手かって kitchenの方方ほう directionでは臨時雇い臨時りんじ雇やとい hired by the day; working on contractの車夫車夫しゃふ cartman; driverと下女下女げじょ maidservantがしきりにしきりに frequently; incessantly論判論判ろんぱん argument; disputeしている。たいへん騒々しい騒々そうぞうしい noisy。

「ちょっと御覧なさいちょっと御覧ごらんなさい take a look at this」と美禰子が小さな小ちいさな small; quiet (voice)声声こえ voiceで言う言いう said。三四郎は及び腰になって及および腰ごしになって with one's back bent、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪髪あたま hair (usually 髪かみ)で香水香水こうすい perfumeのにおいがする。

絵絵え pictureはマーメイドの図図ず illustrationである。裸体の裸体らたいの naked; nude女女おんな womanの腰腰こし hipsから下下した belowが魚魚さかな fishになって、魚の胴胴どう trunk; torsoがぐるりと腰を回って回まわって circle (around)、向こう側向むこう側がわ other side; far sideに尾尾お tailだけ出て出でて protrude; stick outいる。女は長い長ながい long髪髪かみ hairを櫛櫛くし combですきながらすきながら combing、すき余ったすき余あまった too much for the comb; overflowing the combのを手手て handに受けながら受うけながら receive; hold、こっちを向いて向むいて face (toward)いる。背景背景はいけい backgroundは広い広ひろい wide海海うみ ocean; seaである。

「人魚人魚マーメイド mermaid」

「人魚」

頭頭あたま headsをすりつけたすりつけた brushed against (each other)二人は同じ同おなじ same事事こと thingをささやいた。この時時とき time; momentあぐらをかいていた与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がなんと思った思おもった thought; wonderedか、

「なんだ、何何なに whatを見て見みて look atいるんだ」と言いながら廊下廊下ろうか corridor; hallwayへ出て来た出でて来きた came out (to)。三人三人さんにん three (people)は首をあつめて首くびをあつめて with heads together画帖を一枚ごと一枚いちまいごと one page at a timeに繰って繰くって turn (pages); flip throughいった。いろいろな批評批評ひひょう critique; commentが出る。みんないいかげんである。

ところへ広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaがフロックコートで天長節天長節てんちょうせつ Emperor's Birthday (former national holiday)の式式しき ceremonyから帰ってきた帰かえってきた came back; returned、三人は挨拶挨拶あいさつ greetings; civilitiesをする時に画帖を伏せて伏ふせて lay face down; turn overしまった。先生が書物だけはやく片づけよう片かたづけよう put away; organizeというので、三人がまた根気に根気こんきに diligently; energeticallyやり始めたやり始はじめた started on; set about (doing something)。今度今度こんど this timeは主人公主人公しゅじんこう master; head of the houseがいるので、そう油を売る油あぶらを売うる loaf; dawdleこともできなかったとみえて、一時間後一いち時間じかん後ご one hour laterには、どうか、こうか廊下の書物が書棚書棚しょだな bookshelvesの中中なか inside; withinへ詰まって詰つまって be packed (into)しまった。四人四人よにん four (people)は立ち並んで立たち並ならんで standing togetherきれいに片づいた書物を一応一応いちおう once-overながめた。

「あとの整理整理せいり arrangement; adjustmentはあしただ」と与次郎が言った。これでがまんなさいといわぬばかりである。

「だいぶお集めになりましたお集あつめになりました gathered; collectedね」と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が言う言いう said; remarked。

「先生先生せんせい Professor (used here as form of address)これだけみんなお読みになったお読よみになった readですか」と最後に最後さいごに finally三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が聞いた聞きいた asked; inquired。三四郎はじっさい参考参考さんこう reference; (point of) consultationのため、この事実事実じじつ truth; realityを確かめて確たしかめて confirm; verifyおく必要必要ひつよう necessityがあったとみえる。

「みんな読めるものか、佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)なら読むかもしれないが」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は頭をかいて頭あたまをかいて scratch one's headいる。三四郎はまじめになって、じつはこのあいだから大学大学だいがく universityの図書館図書館としょかん libraryで、少しずつ少すこしずつ a few at a time本本ほん booksを借りて借かりて borrow読むが、どんな本を借りても、必ず必かならず invariably; without failだれか目を通して目めを通とおして look throughいる。試しに試ためしに as a testアフラ・ベーンアフラ・ベーン Aphra Behn (English female literary writer; 1640-1689)という人人ひと personの小説小説しょうせつ novelを借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書読書どくしょ reading範囲範囲はんい scope; rangeの際限際限さいげん limits; boundsが知りたくなった知しりたくなった wanted to know; was wondering aboutから聞いてみたと言う。

「アフラ・ベーンならぼくも読んだ」

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaのこの一言一言いちごん few words; brief commentには三四郎も驚いた驚おどろいた be surprised; be astounded。

「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖癖くせ habit; tendencyがある」と与次郎が言った。

広田は笑って笑わらって smiled; laughed座敷座敷ざしき living room; parlorの方方ほう directionへ行く行いく went (to)。着物着物きもの kimono; clothesを着換える着換きがえる change (clothes)ためだろう。美禰子もついて出た出でた left; went out。あとで与次郎が三四郎にこう言った。

「あれだから偉大な偉大いだいな great; eminent暗闇暗闇くらやみ darkness; obscurityだ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない光ひからない doesn't shine; doesn't radiate。もう少し流行る流行はやる popular; in vogueものを読んで、もう少し出しゃばって出でしゃばって assert oneself; promote oneselfくれるといいがな」

与次郎の言葉はけっして冷評冷評れいひょう sneer; slightではなかった。三四郎は黙って黙だまって in silence本箱本箱ほんばこ bookcaseをながめていた。すると座敷から美禰子の声声こえ voiceが聞こえた。

「ごちそうをあげるからお二人お二人ふたり you two; the two of youともいらっしゃい」

二人が書斎書斎しょさい study (room)から廊下伝いに廊下ろうか伝づたいに following the corridor、座敷へ来て来きて come (to); arrive (at)みると、座敷のまん中まん中なか middle; centerに美禰子の持って来た持もって来きた brought籃籃バスケット basketが据えて据すえて place; set (into position)ある。蓋蓋ふた lidが取って取とって take (off); removeある。中中なか insideにサンドイッチがたくさんはいっている。美禰子はそのそばにすわって、籃の中のものを小皿小皿こざら small dish; small plateへ取り分けて取とり分わけて apportion; serve outいる。与次郎と美禰子の問答問答もんどう dialogue; discussionが始まった始はじまった started。

「よく忘れずに忘わすれずに without forgetting持ってきました持もっってきました broughtね」

「だって、わざわざ御注文御注文ごちゅうもん order; requestですもの」

「その籃籃バスケット basketも買ってきた買かってきた went and boughtんですか」

「いいえ」

「家家うち house; homeにあったんですか」

「ええ」

「たいへん大きな大おおきな big; largeものですね。車夫車夫しゃふ rickshaw man; driverでも連れてきた連つれてきた brought (someone along)んですか。ついでに、少しのあいだ少すこしのあいだ for a while置いて置おいて keep (in a place)働かせれば働はたらかせれば put to workいいのに」

「車夫はきょうは使い使つかい errands; businessに出ました出でました was out; left (on)。女女おんな womanだってこのくらいなものは持てますわ」

「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんお嬢じょうさん young ladyなら、まあやめますね」

「そうでしょうか。それなら私私わたし Iもやめればよかった」

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は食い物食くい物もの foodを小皿小皿こざら small dishes; small platesへ取りながら取とりながら serve up; dish out、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)と応対して応対たいおうして deal with; engage withいる。言葉言葉ことば words; speechに少しもよどみよどみ indecision; hesitationがない。しかもゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔顔かお faceを見ない見みない not look atくらいである。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は敬服した敬服けいふくした admired; thought highly of。

台所台所だいどころ kitchenから下女下女げじょ maidservantが茶茶ちゃ teaを持って来る持もって来くる brought out。籃を取り巻いた取とり巻まいた surrounded; crowded round連中連中れんちゅう group; companyは、サンドイッチを食い出した食くい出だした started in on (eating)。少しのあいだは静か静しずか quietであったが、思い出した思おもい出だした rememberedように与次郎がまた広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaに話しかけた話はなしかけた addressed; spoke to。

「先生、ついでだからちょっと聞いて聞きいて ask; inquireおきますがさっきのなんとかベーンですね」

「アフラ・ベーンアフラ・ベーン Aphra Behn (English female literary writer; 1640-1689)か」

「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」

「英国英国えいこく Englandの閨秀作家閨秀けいしゅう作家さっか (accomplished) female writerだ。十七世紀十七じゅうなな世紀せいき 17th centuryの」

「十七世紀は古すぎる古ふるすぎる too old。雑誌雑誌ざっし magazine; journalの材料材料ざいりょう materialにゃなりませんね」

「古い。しかし職業職業しょくぎょう professionとして小説小説しょうせつ novelに従事した従事じゅうじした pursued a calling; took up a professionはじめての女だから、それで有名有名ゆうめい famousだ」

「有名じゃ困るな困こまるな awkward; embarrassing。もう少し伺って伺うかがって inquire (into a matter)おこう。どんなものを書いた書かいた wroteんですか」

「ぼくはオルノーコオルノーコ Oroonoko (published in 1688)という小説を読んだ読よんだ readだけだが、小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)さん、そういう名名な name; title (of a story)の小説が全集全集ぜんしゅう complete worksのうちにあったでしょう」

三四郎はきれいに忘れて忘わすれて forgetいる。先生にその梗概梗概こうがい outline; summaryを聞いてみると、オルノーコという黒ん坊黒くろん坊ぼう Negro; dark-skinned personの王族王族おうぞく royal; member of the royal familyが英国の船長船長せんちょう (ship's) captainにだまされて、奴隷奴隷どれい slaveに売られて売うられて be sold、非常に非常ひじょうに in the extreme; to a great degree難儀をする難儀なんぎをする suffer hardship事事こと matter; affairが書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚実見譚じっけんだん eyewitness's accountだとして後世後世こうせい later generationsに信ぜられて信しんぜられて believed (to be)いるという話話はなし storyである。

「おもしろいな。里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)さん、どうです、一つ一ひとつ one; onceオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の方方ほう directionへ向かった向むかった turned toward。

「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」

「黒ん坊の主人公主人公しゅじんこう main character; heroが必要必要ひつよう necessary; needed なら、その小川君君くん (suffix of familiarity for males)でもいいじゃありませんか。九州九州きゅうしゅう Kyūshūの男男おとこ fellowで色色いろ colorが黒いから」

「口の悪い口くちの悪わるい awful; ill-mannered」と美禰子は三四郎を弁護する弁護べんごする defend; stick up forように言った言いった said; remarkedが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

「書いてもよくって」と聞いた。その目目め eyes; lookを見た見みた saw時時とき time; momentに、三四郎はけさ籃をさげて、折戸折戸おりど (hinged) gateからあらわれた瞬間瞬間しゅんかん moment; instantの女を思い出した。おのずからおのずから involuntarily酔った酔よった be spellbound; be in raptures心地心地ここち feeling; sensationである。けれども酔ってすくんだすくんだ cowered; cringed心地である。どうぞ願いますどうぞ願ねがいます please go ahead (and do something)などとはむろん言いえなかった。

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaは例によって例れいによって as usual; according to habit煙草煙草タバコ tobacco; cigaretteをのみ出したのみ出だした started smoking。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はこれを評して評ひょうして comment on; express an opinion on鼻鼻はな noseから哲学哲学てつがく philosophyの煙煙けむり smokeの吐く吐はく breathe outと言った言いった said; remarked。なるほど煙の出方出方でかた way of emergingが少し少すこし a little; a bit違う違ちがう different。悠然として悠然ゆうぜんとして calmly; deliberately太く太ふとく thickたくましいたくましい sturdy棒棒ぼう column; pillarが二本二本にほん two (long objects)穴穴あな nostrilsを抜けて来る抜ぬけて来くる come out through。与次郎はその煙柱煙柱えんちゅう pillars of smokeをながめて、半分半分はんぶん halfway背背せ back (part of body)を唐紙唐紙からかみ paper-covered shōji (short for 唐紙からかみ障子しょうじ)に持たした持もたした leaned againstまま黙って黙だまって be silentいる。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の目目め eyesはぼんやり庭庭にわ yard; gardenの上上うえ on; on top ofにある。引っ越し引ひっ越こし movingではない。まるで小集小集しょうしゅう small get-togetherのていに見える見みえる appear (to be)。談話談話だんわ conversationもしたがって気楽な気楽きらくな carefree; comfortableものである。ただ美禰子美禰子みねこ Mineko (name)だけが広田先生の陰陰かげ other side (of)で、先生がさっき脱ぎ捨てた脱ぬぎ捨すてた took off; cast off洋服洋服ようふく Western clothesを畳み始めた畳たたみ始はじめた began to fold up。先生に和服和服わふく Japanese clothesを着せた着きせた laid out clothing (for someone to wear)のも美禰子の所為所為しょい act; deedとみえる。

「今今いま (just) nowのオルノーコオルノーコ Oroonoko (Aphra Behn novel published in 1688)の話話はなし storyだが、君君きみ youはそそっかしいそそっかしい rash; carelessから間違える間違まちがえる be mistaken; misunderstandといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。

「へえ、伺って伺うかがって inquire; seek someone's guidanceおきます」と与次郎が几帳面に几帳面きちょうめんに precisely; on cue言う。

「あの小説小説しょうせつ novelが出て出でて appear; be publishedから、サザーンサザーン Thomas Southerne (Irish dramatist; 1660–1746)という人人ひと person; manがその話を脚本脚本きゃくほん (theater) scriptに仕組んだ仕組しくんだ arranged (as)のが別別べつ separateにある。やはり同じ同おなじ same名名な nameでね。それをいっしょにしちゃいけない」

「へえ、いっしょにしやしません」

洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔顔かお faceを見た。

「その脚本のなかに有名な有名ゆうめいな famous句句く line; wordsがある。Pity's akin to love という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。

「日本日本にほん Japanにもありそうな句ですな」と今度今度こんど this timeは三四郎が言った。ほかの者者もの people; membersも、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない思おもい出だせない can't recall; can't think of。ではひとつ訳して訳やくして translateみたらよかろうということになって、四人四人よにん four (of them)がいろいろに試みた試こころみた tried; attemptedがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、

「これは、どうしても俗謡俗謡ぞくよう popular song; balladでいかなくっちゃだめですよ。句の趣趣おもむき tenor; gistが俗謡だもの」と与次郎らしい意見意見いけん opinion; point of viewを提出した提出ていしゅつした offered; proposed。

そこで三人三人さんにん three (people)がぜんぜん翻訳翻訳ほんやく translation権権けん authority; rightsを与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に委任する委任いにんする entrust to; charge with (doing)ことにした。与次郎はしばらく考えて考かんがえて pondered; mulledいたが、

「少し少すこし a little; a bitむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうかあいそう wretched; pitiable (= 可哀かわいそう)だたほれたってことよ」

「いかん、いかん、下劣の極下劣げれつの極きわみ utterly base; thoroughly vulgarだ」と先生先生せんせい professorがたちまち苦い苦にがい distasteful; disapproving顔顔かお face; lookをした。その言い方言いい方かた manner of speaking; expressionがいかにも下劣らしいので、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は一度に一度いちどに at once; simultaneously笑い出した笑わらい出だした broke into laughter。この笑い声笑わらい声ごえ laughterがまだやまないうちに、庭庭にわ yard; gardenの木戸木戸きど (wooden) gateがぎいと開いて開あいて opened、野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんがはいって来たはいって来きた came in; entered。

「もうたいてい片づいた片かたづいた put in order; finished upんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側椽側えんがわ verandaの正面正面しょうめん front sideの所所ところ place; areaまで来て、部屋部屋へや roomの中中なか inside; interiorにいる四人四人よにん four (people)をのぞくように見渡した見渡みわたした looked around。

「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。

「少し手伝って手伝てつだって help outいただきましょうか」と美禰子が与次郎に調子を合わせた調子ちょうしを合あわせた went along with。野々宮さんはにやにや笑いながら、

「だいぶにぎやかなようですね。何か何なにか somethingおもしろい事事こと incident; affairがありますか」と言って、ぐるりと後向きに後向うしろむきに facing backwards椽側へ腰をかけた腰こしをかけた sat down。

「今今いま just nowぼくが翻訳をして先生にしかられたところです」

「翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」

「へえ」と言った野々宮君君くん (suffix of familiarity for males)は椽側で筋かいに筋すじかいに crosswise; at an angle向き直った向むき直なおった turned (himself)。「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味意味いみ meaningがわからない」

「だれだってわからんさ」と今度今度こんど this timeは先生が言った。

「いや、少し言葉言葉ことば wordsをつめすぎたから――あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」

「アハハハ。そうしてその原文原文げんぶん original textはなんというのです」

「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した繰くり返かえした repeated。美しい美うつくしい beautifulきれいな発音発音はつおん pronunciationであった。

野々宮さんは、椽側から立って立たって get up (from)、二、三歩二に、三歩さんぽ several steps庭の方方ほう directionへ歩き出した歩あるき出だした walked; pacedが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった留とまった came to a stop。

「なるほどうまい訳訳やく translationだ」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)君君くん (suffix of familiarity for males)の態度態度たいど manner; behaviorと視線視線しせん gaze; look (in one's eyes)とを注意せずにはいられなかった注意ちゅういせずにはいられなかった couldn't help but notice。

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は台所台所だいどころ kitchenへ立って立たって get up (to go to)、茶碗茶碗ちゃわん tea cupを洗って洗あらって wash、新しい新あたらしい fresh茶茶ちゃ teaをついで、椽側椽側えんがわ verandaの端端はし edgeまで持って出る持もって出でる bring out (to)。

「お茶を」と言った言いった saidまま、そこへすわった。「よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)さんは、どうなすって」と聞く聞きく asked。

「ええ、からだのほうはもう回復回復かいふく recovery (from an illness); convalescenceしましたが」とまた腰をかけて腰こしをかけて sit down茶を飲む飲のむ drink。それから、少し少すこし a little; a bit先生先生せんせい professorの方方ほう directionへ向いた向むいた turned toward。

「先生、せっかく大久保大久保おおくぼ Ōkubo (place name)へ越した越こした moved (to); relocated (to)が、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」

「なぜ」

「妹妹いもうと younger sisterが学校学校がっこう schoolへ行き帰り行いき帰かえり coming and going; commuteに、戸山戸山とやま Toyama (Academy)の原原はら (training) fieldsを通る通とおる pass throughのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜夜よる evening実験実験じっけん experiment; testをやるものですから、おそくまで待って待まって waitいるのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうち今いまのうち for nowは母母はは motherがいるからかまいませんが、もう少しして、母が国国くに home town; the countryへ帰る帰かえる return (to)と、あとは下女下女げじょ maidservantだけになるものですからね。臆病者臆病者おくびょうもの timid person; one who's faint of heartの二人二人ふたり two (people)ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」と冗談半分冗談じょうだん半分はんぶん half in jest; half seriousの嘆声嘆声たんせい sighをもらしたが、「どうです里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)さん、あなたの所所ところ place; residenceへでも食客食客いそうろう house guestに置いて置おいて place; take in (a guest)くれませんか」と美禰子の顔顔かお faceを見た見みた looked at。

「いつでも置いてあげますわ」

「どっちです。宗八宗八そうはち Sōhachi (Nonomiya's first name)さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」と与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が口を出した口くちを出だした interjected。

「どちらでも」

三四郎だけ黙っていた黙だまっていた remained silent。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaは少しまじめになって、

「そうして君君きみ youはどうする気気き intentionなんだ」

「妹の始末始末しまつ settlement; handlingさえつけば、当分当分とうぶん for a while下宿下宿げしゅく lodgingしてもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない引ひっ越こさなければならない will have to move。いっそいっそ rather; preferably学校の寄宿舎寄宿舎きしゅくしゃ dormitoryへでも入れよう入いれよう put into; placeかと思う思おもう think (of doing something)んですがね。なにしろ子供子供こども childだから、ぼくがしじゅうしじゅう any time; at all hours (= 始終しじゅう)行けるか、向こう向むこう the other party (she)がしじゅう来られる来こられる can come; can visit所でないと困るでないと困こまる it has to be ...んです」

「それじゃ里見さんの所に限る限かぎる be limited to」と与次郎がまた注意注意ちゅうい advice; opinionを与えた与あたえた offered。広田さんは与次郎を相手にしない相手あいてにしない disregard; pay no heed to様子様子ようす mannerで、

「ぼくの所の二階二階にかい 2nd floor; upstairsへ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)のような者がいるから」と言う。

「先生先生せんせい professor、二階二階にかい 2nd floor; upstairsへはぜひ佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's first name)を置いて置おいて place; take in (a guest)やってください」と与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)自身自身じしん himselfが依頼した依頼いらいした asked (for something); requested。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)君君くん (suffix of familiarity for males)は笑いながら笑わらいながら laugh、

「まあ、どうかしましょう。――身長身長なり stature; (physical) appearanceばかり大きく大おおきく grown; matureってばかだからじつに弱る弱よわる be troubled; be in a quandary。あれで団子坂団子坂だんござか Dangozaka (place name)の菊人形菊人形きくにんぎょう chrysanthemum dollsが見たい見みたい want to seeから、連れていけ連つれていけ take me (to a place or event)なんて言う言いう askんだから」

「連れていっておあげなさればいいのに。私私わたし Iだって見たいわ」

「じゃいっしょに行きましょう行いきましょう goか」

「ええぜひ。小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)さんもいらっしゃい」

「ええ行きましょう」

「佐々木さんも」

「菊人形は御免御免ごめん no thanksだ。菊人形を見るくらいなら活動写真活動かつどう写真しゃしん moving pictures; moviesを見に行きます」

「菊人形はいいよ」と今度今度こんど this timeは広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaが言いだした。「あれほどに人工的な人工的じんこうてきな man-made; crafted by human handsものはおそらく外国外国がいこく overseas; abroadにもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要必要ひつよう necessityがある。あれが普通の普通ふつうの ordinary人間人間にんげん human beingsにできていたら、おそらく団子坂へ行く者者もの persons; peopleは一人一人ひとり one (person)もあるまい。普通の人間なら、どこの家家うち houseでも四、五人四し、五人ごにん four or five peopleは必ず必かならず invariablyいる。団子坂へ出かける出でかける go out to; set out forにはあたらない」

「先生一流の一流いちりゅうの first-rate; top-notch論理論理ろんり logic; reasoningだ」と与次郎が評した評ひょうした commented on; assessed。

「昔昔むかし in former days教場教場きょうじょう classroomで教わる教おそわる be taught時時とき time; occasionにも、よくあれでやられたものだ」と野々宮君が言った。

「じゃ先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に最後さいごに finally言う。先生は黙って黙だまって remain silentいる。みんな笑いだした。

台所台所だいどころ kitchenからばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った立たった rose; got up。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はやはりすわっていた。

「どれどれ well; nowぼくも失礼しよう失礼しつれいしよう take one's leaveか」と野々宮さんが腰を上げる腰こしを上あげる stood up。

「あらもうお帰りお帰かえり leaving。ずいぶんね」と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が言う。

「このあいだのものはもう少し少すこし a little; a bit待って待まって wait; hold offくれたまえ」と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」と受けて受うけて accept; agree、野々宮さんが庭庭にわ yard; gardenから出ていった。その影影かげ form; figureが折戸折戸おりど (hinged) gateの外外そと outside; other sideへ隠れる隠かくれる be hiddenと、美禰子は急に急きゅうに suddenly思い出した思おもい出だした rememberedように「そうそう」と言いながら、庭先庭先にわさき in the gardenに脱いで脱ぬいで take off (shoes etc)あった下駄下駄げた (wooden) sandalsをはいて、野々宮のあとを追いかけた追おいかけた followed。表表おもて out frontで何か何なにか something話して話はなして talk about; discussいる。

三四郎は黙ってすわっていた。